- 日蓮宗と数多の宗教の洗脳の解き方について知りたい・・・
- お釈迦様と日蓮の関係性とは・・・
- この世界に仕組まれた構造と生命の本質について・・・
近年、乱れた政治・経済の衰退・各地域の異常氣象・國と國との争い・食糧危機のリスク・エルニーニョ現象・ホルムズ海峡の封鎖・キリのない個人情報の流出や悪質極まる詐欺の蔓延、そして、人々の腐敗堕落などを見聞きしては、殺伐とした空氣で覆われていると感じる人もいるのではないでしょうか?
実は、それらは800年前の鎌倉時代の歴史で起きた天変地異・飢饉・元寇などの歴史と通づる部分もあります。そして、日蓮が書いた立正安国論の中には『未来また然るべきか』と予言されており、実際にこれから三災七難といったような災難が各地で起きてくると心配している人もいるのではないでしょうか?
私は現在、宗教の洗脳を解くための情報を発信しており、これまで、顕正会・創価学会・日蓮正宗などの洗脳を解く方法などを解説してきました。そして、有り難いことに、実際に小生が発信している情報にふれた人からは『本質をついている』という感想をいただいたり、『宗教団体を辞めることにしました』と決意する人もでてきています。
そして、今回は、日蓮宗の洗脳の解き方!についてふれていきたいと思います。
日蓮宗においては約300万人の信徒がいるとされており、全国には5,000を超える寺院が存在しています。ただし、300万人の全員が日常的にお題目を唱えているわけではありません。また人によっては信仰そのものを辞めていたり、信仰の対象を他の宗教に変更している場合もあります。それは日蓮宗に限らず、宗教団体の全般に言えることです。つまり、宗教団体が公表している信者の数と実際に活動している人の数には多少の誤差があるということです。
それはさておき、本題に入る前にこの記事を読むことで得られるメリットをお伝えさせていただきます。それは、洗脳の仕組みを理解することで、物事における本質を見れるようになったり、この世界の構造などについて知ることができる点にあります。つまり、日蓮宗をメタファー(一例)にして、数多の宗教の洗脳の解き方が理解できるようになっています。
まず初めにお伝えしておきますが、この記事では主に日蓮宗の洗脳の解き方についてふれていきますが、日蓮宗(他宗も然り)での信仰そのものを否定・批判するつもりは毛頭ありません。この記事を見てくれているあなたにせよ、あなたの友人や家族にせよ、日蓮宗での信仰をやりたいと思う意志があるのであれば、その意思を尊重することが大切だと思っています。
それではここから先、本題に入ります。
第一章 お釈迦様の歴史と一代五十年に及ぶ説法
お釈迦様は紀元前1029年4月8日生まれとされています。そして、生まれた直後には『天上天下唯我独尊』と言葉にされたそうです。しかし、そのような振る舞いや誕生日においては、実際に歴史的に確認されているわけではありません。またご誕生は紀元前5世紀や6世紀生まれとする説もあります。父の名前は浄飯王(じょうぼんのう)といい、母の名前は摩耶夫人(まやぶにん)と伝えられています。
お釈迦様は王族としての家庭環境で生まれ育ちましたが、王子としての物質的な豊かさを得ても、生老病死の苦しみからは逃れられないことを知り、悟りを求める旅に出られます。そして、様々な苦行を経たのち、最終的には菩提樹の木の下で瞑想したことで悟りをひらいたとされています。
世間一般的な解釈としては、仏教はインドのお釈迦様ことブッダから始まると思われていますが、それは、この地球上においての三千年の歴史の中だけをみた見識に過ぎません。
経文の中には、お釈迦様以外にも、たくさんの仏様が出現しているのが分かります。また仏教の世界観では、時空間を超え、未来にも仏様が誕生することや、地球以外にも仏様が出現されるということが説かれいます。それらは、三世十方の諸仏と総称されています。ちなみに、三世とは、過去・現在・未来の三軸であり、十方とは須弥山を中心に広がる東西南北・東南・東北・西南・西北・上下になります。また、須弥山とは大宇宙の中央に聳え立つ山のことになります。
ちなみに、お釈迦様はインドではなく、ネパールのルンビニという街の出身です。ですがその生涯の大半をインドで暮らし、修行し、学び、悟りを開き、大衆に向かって説法をし、そして晩年をインドで過ごしたため、世間ではインドのお釈迦様という認識になっています。
お釈迦様は十九歳で出家し、そして、三十歳の頃、菩提樹の木の下で悟りをひらいたとされています。以後、八十歳の入滅に至るまでの五十年間で法を説かれたとされています。その説法の順番は次の五段階に分かれています。
| 【お釈迦様による説法の順序】 | ①華厳時 | ②阿含時 | ③方等時 | ④般若時 | ⑤法華・涅槃時 |
| 【説法の年数】 | 最初の二十一日間 | 十二年間 | 十六年間 | 十四年間 | 最後の八年間 |
| 【主に関連する経典】 | 華厳経 | 増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経 | 深密経・勧経・雙勧経・阿弥陀経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・楞伽経・大集経・金光明経・維摩経・無量寿経・観無量寿経・ | 大般若経・般若心経・仁王般若経・摩訶般若経・光讃般若経・金剛般若経 | 法華経・涅槃経 |
| 【主に関連する宗派】 | 華厳宗 | 倶舎宗・成実宗・律宗 | 法相宗・浄土宗・真言宗・浄土真宗・時宗・融通念仏宗・禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗) | 三論宗 | 天台宗・日蓮宗 |
| 【主に関連する仏・菩薩・人】 | 釈迦如来・毘盧遮那仏・文殊菩薩・普賢菩薩・観世音菩薩・弥勒菩薩・金剛幢菩薩・金剛蔵菩薩・法慧菩薩 ・功徳林菩薩 ・大勢至菩薩 ・善財童子 | 釈迦如来・毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・拘留孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏・弥勒菩薩・舎利弗 目連・大迦葉 須菩提・富楼那・迦旃延・阿那律・優波離・羅睺羅・阿難 | 釈迦如来・阿弥陀仏・薬師如来・阿閦仏 ・大日如来・多宝仏などの諸仏・観世音菩薩・大勢至菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩 ・弥勒菩薩・地蔵菩薩・維摩居士・勝鬘夫人 | 釈迦如来・阿閦仏・阿弥陀仏・十方諸仏・文殊菩薩・観自在菩薩・弥勒菩薩・普賢菩薩・金剛手菩薩・善財童子 | 釈迦如来・多宝如来・十方世界の諸仏・ 文殊菩薩・普賢菩薩・観世音菩薩・弥勒菩薩・薬王菩薩・妙音菩薩・常不軽菩薩・地蔵菩薩 無尽意菩薩・ 智積菩薩・薬上菩薩・勇施菩薩・上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩 ・安立行菩薩 |
| 【主な内容】 | ①一即一切・一切即一 ②法界縁起 ③菩薩十地 | ①四諦 ②八正道 ③十二因縁 | ①大乗思想 ②菩薩道・慈悲 ③浄土思想・密教 | ①色即是空・空即是色 ②五蘊(色・受・想・行・識)皆空 ③般若波羅蜜 | ①一切衆生悉有仏性 ②久遠実成 ③十界互具・百界千如・一念三千 |
五十年の説法のうち、華厳時〜般若時に至るまでは、真実を顕していない方便の教えになります。方便とは仮の教えという意味です。
例えば、アニメのコナンで表現すると、本当のコナン(主人公)の正体は工藤新一なのですが、周囲に本当のことを喋ったら、混乱や黒の組織に狙われる危険をまねきかねないので、その正体を隠し、コナンという名のままに仮の姿を演じているようなかんじになります。
そして、日蓮宗では、お釈迦様におかれても本当の姿があると解釈されています。
ではそのお釈迦様の本当の姿とはなんなのか?
それは久遠実成本師釈迦牟尼仏とされています。
つまり、インドのお釈迦様は仮の姿であって、本当は遠い昔に、成仏を成し遂げた仏様その人であられるという解釈をされています。それは法華経の寿量品に次のよう書かれているためです。
我成仏已来 甚大久遠 寿命無量阿僧祇劫 常住不滅 我常在此娑婆世界 説法教化
法華経(如来寿量品第十六)
※私は仏となって以来、非常に遠い、はるかな昔から存在している。私の寿命は無量阿僧祇劫という、計り知れないほど長いものであり、常にこの娑婆世界に住して滅することなく、法を説き、(人々を)教化している。
一切世間 天人及阿修羅 皆謂今釈迦牟尼仏 出釈氏宮 去伽耶城不遠 坐於道場 得阿耨多羅三藐三菩提 然善男子 我実成仏已来 無量無辺 百千万億 那由他劫
法華経(如来寿量品第十六)
※一切世間の天・人・及び阿修羅は、皆、「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出で、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提(悟り)を得たり」と謂えり。然るに善男子よ、我、実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺、百千万億、那由他劫なり。
つまり、世間一般の人々の解釈においては、お釈迦様はインドではじめて悟りを開いた。との認識になっていますが、実は、釈尊自身の発言においては、実はそうではなく、久遠という遠い昔にすでに成仏していたと説明されています。そしてその遠い昔より、衆生を導くために法を説いていたことが経典には書かれています。
では、なぜ、法華経を説く前のお釈迦様は本当の姿を隠した状態だったのか?
それは物事には適切な順番やタイミングがあると認識されていたためです。
例えば小学一年生の人に、いきなり二次方程式の解の公式を教えたとて、使用することができません。

二次方程式の解の公式を使用するためには、まずは足し算を習い、次に引き算を習い、そして掛け算・割り算・マイナス数字の計算の仕方などを学習していき、ようやく使用できるようになります。
同じようにお釈迦様は衆生の機根に応じて、法を解くための順番を大事にされていました。
そのため、華厳時・阿含時・方等時・般若時の四二年間に至るまでは、衆生の理解度に応じて、方便の教えを説いていき、後の8年間で、いよいよ真実の法たる法華経及び涅槃経を説いています。
だから、法華経の開経には『種々四十余年には未だ真実を顕わさず』と書かれています。
四十餘年 未顯眞實
無量義経
そして、それを捕捉するかのように、法華経では次のように書かれています。
種種説法 以方便力
法華経(方便品第二)
※種種に説法すること、方便の力を以てす
世尊法久後 要当説真実
法華経(方便品第二)
※世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説くべし
正直捨方便 但説無上道
法華経(方便品第二)
※正直に方便を捨てて、但(た)だ無上道を説く
つまり、法華経が説かれた後においては、それまでの方便の教えは捨てるべしと説かれています。
例えば、建築物を建てる際には、足場を組みますが、完成後には、足場を取り除くのと同じです。
法華経以前の経々は足場のようなものであり、それは爾前経と呼ばれています。
つまり、日蓮の生涯にわたる歴史を見るとき、その姿からは御化導そのものに反骨精神のようなものが垣間見えるのですが、日蓮が念仏宗・禅宗・真言宗・律宗等のあらゆる宗教をことごとく強烈に批判したのには、その諸々の他宗がみな爾前経という足場に執着していたためとなります。
そして、その生き様からはまるで泥水の中に咲く一輪の蓮華のような姿を彷彿とさせます。
日蓮の歴史については以下の記事にまとめていますので、ここでは省略いたします。
余談ではありますが、今の時代もまた世間が濁りきっているように感じます。
例えば、一歩間違えれば死に至るコロナワクチンを平氣で推奨していることや、そしていまだに必要以上にマスク着用を義務とする場所が多々あることなどを見ても分かる人には分かると思います。
本来であれば、一人一人が違和感を無視せずに、おかしな道に染まることがなければ、結局のところ、誰も安全性が確認できていないワクチンを推奨することができなくなったり、過度にマスク着用を義務ということも言えなくなります。
つまり、おかしな現象が現れる問題に共通するのは、おかしな話に従う人がいるためとなります。
それは、自分のことのみならず、ひいては未来の日本や世界がおかしくなる要素にもつながることにもなります。
ちなみに、立正安国論の中には涅槃経を引用して悪知識に従うことなかれと書かれています。
『菩薩、悪像等に於ては心に恐怖すること無かれ、悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ、悪像の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る』
涅槃経
つまり、交通事故などで死んでも地獄界・餓鬼界・畜生界といった境界におちることはないけど、悪知識にあい、惑わされるのであれば、三悪道に堕ちると説かれています。
続いて立正安国論には次のように書かれています。
辛きを蓼葉に習い、草きを溷廁に忘る。
立正安国論
辛い蓼の葉を食べている虫は、その辛さに慣れ、辛いことが辛いと思わなくなり、臭い便所に長くいれば、段々と臭いことを臭いと感じなくなる。と説かれいます。
つまり、異常な状態の環境下に身をおいていると、異常なことが異常だとは思わなくなるということです。
だからこそ、物事の本質を捉える眼を養うことが何よりも大切になってきます。
第二章 日蓮の教義
さて、ここからは日蓮の教義を理解する際に役立つ五重相対というものをご紹介していきます。
五重相対というのは、世にある一切の教法を浅い教えから深い教えに至るまでのそれぞれを五重の段階に分けた状態で比較相対し、教えの勝劣・浅深を決する教判のことになります。
五重相対の最初の第一段階目は内外相対というものになります。
内とは内道のことで仏教のこととなります。外とは外道のことで、仏教以外の一切の宗教のことになります。例えば、ゾロアスター教・キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・儒教・神道、そして、新興宗教の類いなども外道になります。
外道の中には、人間がこの世をどう生きるべきかというのが説かれています。例えば、儒教などでは孝養心・忠誠心・倫理観・五常(仁・義・礼・智・信)などの道徳の大切さを説き明かしていますが、過去世や未来世などの時間軸においては説き明かされていません。また、外道の中には過去世や未来世について説かれているのもあるものの、先祖を廻向し助ける道や、生死を離れて成仏する方法などが説かれていないため浅い教えという枠組みに該当します。
また外道と仏教の根本的な違いは因果が説かれているか否かになります。例えば、キリスト教には信じる者は天国にいき背く者は罰や地獄の苦しみを受けるというような趣旨が説かれていたり、あるいは天地万物は神が創ったとか、この世の初めには言葉があったとかの内容が説かれています。このように外道の教えは因果を無視するような内容が多いのが特徴となっています。つまり外道を数学で例えると、方程式による計算方法を無視した上で、いきなり答えを導きだそうとしているようなものになります。
ちなみにキリスト教に限らず、宗教全般にいえることですが、特定の宗教を信じないと地獄に堕ちるとか永遠の罰が与えられると説かれている内容は全て嘘です。実際に現代社会では胎内記憶だけではなく、過去世の記憶をもつ人もたくさん誕生しています。
また、地獄とか罰などの脅し文は、詮ずるところ人々を不安におとしいれてマインドコントロールするためのツールでしかありません。死後の世界に関することは以下の記事にまとめていますので興味があればご覧いただければと思います。
一方で仏教においては、随所において、原因と結果の因果の法則が説かれており、この宇宙にあるすべての存在は因縁和合により成り立っていると説かれています。そのため内道(仏教)と外道を比較相対したときには、内道(仏教)の方が勝れた深い教えということになります。
開目抄には外道のはかなかさを次のように説いています。
儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過・未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。
開目抄
外典・外道の四聖・三仙、其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫、其の名は賢なりといえども実には因果を弁えざる事嬰児のごとし
開目抄
過去・未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり、まことの賢聖にあらず。
開目抄
つまり、単純に外道に説かれている内容は全て間違いで、内道(仏教)だから全て正しい内容としているわけではありません。あくまでも、どこまで生命・宇宙・因果・生死などの真理について明らかにしているのかという尺度で比較しているのが内外相対となります。
そして、五重相対の第二段階目は大小相対というものになります。
大小相対とは、小乗経と大乗経を比較して、大乗経が勝れることを明らかにする比較となっています。
ちなみに、乗とは教法を乗り物にたとえたもので、衆生を教に乗せて運ぶという意味があります。
つまり、小乗とは小さな乗り物のことで、少人数を運ぶだけの教えとなっています。
小乗経は仏教の五時の中に当てはめれば、阿含時の十二年間に説かれたもので、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経等が該当します。
その教えの内容は自分自身の迷いや苦しみから離れて悟りを目指すものとなっています。また、それは主に二乗のための一定の悟り(阿羅漢果)を目指すためのものとして説かれています。二乗とは、声聞界と縁覚界のことで、それぞれ独自の知恵や感性の性質があるものとなっています。しかし、かえって独善的な悟りに囚われ利他の心が薄れるのが特徴となっています。それはまた慢心のようなものになります。
若有比丘 若比丘尼 自謂已得 阿羅漢 是最後身 究竟涅槃 便不復志 求阿耨多羅三藐三菩提 當知此輩 皆是增上慢人
法華経(方便品第二)
※若し比丘、若し比丘尼、自ら已に阿羅漢を得たり、是れ最後身なり、究竟の涅槃なりと謂いて、便ち復た阿耨多羅三藐三菩提を志求せざらん。当に知るべし、此の輩は皆是れ増上慢の人なり。
前四味の諸経にては菩薩・凡夫は仏になるべし、二乗は永く仏になるべからず
小乗大乗分別抄
※前四味(華厳時・阿含時・方等時・般若時)などで説かれた諸経では菩薩・凡夫は仏に成るけれど、声聞界と縁覚界の二乗では永く成仏はできない。
二乗は自身は解脱とをもえども利他の行かけぬ
開目抄
※二乗は自分自身は解脱したと思っているけれど、他者を救う行が欠けている。
余談ではありますが、今日では一定の悟りを得るためのツールとして、アガスティアの葉・チャネリングで得た情報・瞑想・AI・未来人や宇宙人と称する人物の話などといった類のもがありますが、そこで、それら自分の知り得た知識に執着し、他者に対して思いやりの心がもてなくなってしまったり、慢心の心がでてきてしまうと詮ずるところ同じようなことが言えると思います。
小乗経が説かれる時代背景のポイントを見る際、それはエゴと正対するために説かれたものであるというのが理解できます。
釈尊は、当時のインドにおいて享楽主義がはびこるのを見て、それらを戒めるために人生を苦と説き、様々な戒律を設けました。その中でも基本的な戒律が五戒になります。
- 不殺生戒(生き物を殺してはならない)
- 不偸盗戒(他人のものを不正に盗んではならない)
- 不邪淫戒(不適切な性行為をしてはならない)
- 不妄語戒(嘘・偽りを言ってはならない)
- 不飲酒戒(酒など、心を乱すものを飲んではならない)
このような戒律を主とする内容が小乗経の特徴となります。それは煩悩断滅を目的とした一時的な方便の役割にすぎません。
また、大小相対について把握する場合は次のようなものが参考になります。
小乗経と申す経は世間の小舟のごとく、わづかに人の二人・三人等は乗すれども百千人は乗せず、設ひ二人・三人等は乗すれども此岸につけて彼岸へは行きがたし
乙御前御消息
※小乗経という経は、世間の小さな舟のようなものである。わずかに二人・三人ほどの人は乗せることができるが、百人・千人もの人を乗せることはできない。たとえ二人・三人ほどを乗せることができたとしても、此岸(小さな悟り)まで運ぶことはできても、彼岸(成仏の大果報)まで渡ることは難しい。
阿含経を小乗と説く事は方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経より出でたり。法華経には一向に小乗を説きて法華経を説かざれば、仏慳貪に堕すべしと説きたもう。
教機時国抄
※阿含経を小乗の教えであるとする考えは、方等・般若・法華・涅槃などの諸大乗経からでたものである。法華経にはただ小乗の教えだけを説いて法華経を説かなければ、仏は慳貪に堕ちるであろうと説かれている。
大乗は大きな乗り物のことで、多くの人々を成仏に導くためのものになっています。そのため大乗経では本格的に仏道を実践する方法が説かれています。またそれは自分だけでなく、一切衆生を救済することを目指すものとなっています。そのため小乗経と大乗経を比較相対したときには、大乗経の方が勝れた深い教えということになります。
五重相対の第三段階目は権実相対というものになります。
権実相対とは、大乗経のうちにある権大乗(爾前経)と実大乗(法華経)を比較して、どちらが真実の教えであるのかを明らかにすることになります。
権とは、仮(方便)の意味になります。実とは真実という意味になります。
つまり、第一章でもふれたとおり、お釈迦様は衆生の理解力や機根などに応じて、まずは仮の教えを説き、最終的に真実の教えを説いたとされています。
ちなみに、爾前経(法華経以前)の諸経と法華経の違いは、そこに二乗作仏・久遠実成が説かれているか否かになります。
予愚見をもって前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先ず世間の学者もゆるし我が身にもさもやとうちおぼうる事は、二乗作仏・久遠実成なるべし
開目抄
※私の見識では、法華経以前の四十余年と、法華経の後の八年間との違いを考えてみると、その違いはたくさんあるけれど、まず世間の学者たちも認めており、私自身も「確かにそうなのだろう」と思われるものは、二乗作仏と久遠実成である。
なぜ二乗作仏が大事なのかといえば、もし二乗が作仏(成仏)しないのであれば、凡夫や菩薩においても成仏できないことになってしまいます。それは、十界互具といって、凡夫(人間界)や菩薩においても、二乗の性質が具わっているためです。
そして、重要なのは法華経の段階に入り、ようやく十界互具・一念三千(生命の極理)の義が説かれている点にあります。
ですので、法華経が説かれた後においては素直に爾前教の教えは方便の教えであると心得る必要があります。
余経の一偈をも受けざれ
法華経(比喩品第三)
つまり、ここでのポイントは法華経の中に、二乗作仏・一念三千の義が説かれている点にあります。そのため権大乗(爾前教)と実大乗(法華経)を比較相対したときには、実大乗(法華経)の方が勝れた教えということになります。
五重相対の第四段階目は本迹相対というものになります。
本迹相対というのは、法華経の中にある迹門(前半の十四品)と本門(後半の一四品)を比較して、本門の深い教えを明らかにすることになります。
ここでは、本門と迹門の違いからお伝えいたします。
それは理の一念三千と事の一念三千の違いになります。
理とは理論という意味になります。つまり、目に見えない道理や原理原則などのことを指しています。一方で事とは事実という意味になります。つまり理論が具体的に現れた出来事・現象のことになります。例えばこの地球上に『重力がある』というのが理だとすれば、実際に『手を離した物が落ちる』現象のことが事となります。
つまり、理の一念三千とは『一念の中に三千の構成要素が具わる』という理論のことになります。
そして、事の一念三千とは、『実際に一念三千の悟りの全てが生命に現れる』ということになります。ちなみに一念三千の構成要素とは十界×十界×十如是×三世間という方程式から導きだされています。
先程の項目で、法華経には一念三千が説かれているとお伝えしましたが、それは、法華経の迹門に訳すれば理の一念三千が説かれているということになります。要するに、そこには単に理屈のみが説かれているということです。
ちなみに、爾前経と迹門とでは多くの違いがあるといっても、お釈迦様が始成正覚の仏様である点においては同じです。始成正覚とは、インドで初めて成仏した仏様であるということになります。
しかし、本門の段階に入り、インドで成仏したという迹(仮)の姿を開いて、久遠に成仏していた本地を顕すことになります。このことを発迹顕本といいます。つまりそれは、久遠実成の概念が説かれることにより、お釈迦様の本当の姿は過去の遠い昔からの仏様であるということを明らかにしたものとなっています。
如是我成佛已來,甚大久遠,壽命無量阿僧祇劫,常住不滅
法華経(如来寿量品第十六)
※是の如く、我実に成仏してより已来(このかた)甚大久遠にして寿命無量阿僧祇劫なり、常住にして滅せず。
ここで重要なことは、久遠実成が説かれる前の迹門の段階では二つの欠点があるということになります。それは、有名無実と本無今有というものになります。
開目抄では有名無実・本無今有の二失について、それぞれ水の中に映る月・根無し草のようなものと説かれています。
発迹顕本せざればまことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし、根無し草の波の上に浮かべるににたり
開目抄
水中の月とは、真の月ではないことを意味しています。まるでその様は、天にある本物の月を知らずに池に映る月を見ているようなかんじとなります。また池に映る月とは、実際にはそこには何もない欠点を示しているものになります。この例えは、爾前・迹門の段階の教えが一時的な方便のものであったことを開示しているものとなります。
そして、根無し草とは、種を蒔かなくても生い茂る萍のことになります。萍とは水面に浮かぶ水草のことで、根が土に無いものとなっています。それはつまり、成仏の根を持たない二乗の特徴を表現しているということになります。
水中の月・根無し草のように、どうして有名無実・本無今有の失があるのかといえば、それは真の一念三千が顕れていない故となります。
つまり、それは法華経の迹門の段階においては理の一念三千という理論はあっても、事の一念三千が顕れていないことを意味しています。
なぜなら、迹門の時点では発迹顕本をしていないためです。先ほどお伝えしたように発迹顕本とは迹を発して、本(本地)を顕すということです。つまり、迹門の時点では久遠実成が明かされていないということです。
久遠実成が明かされていないのであれば、それは、ただ理屈のみがそこにあるだけの状態となります。
しかし、本門の段階に入ると、その状態が大きく変わります。
本門の寿量品では、お釈迦様自身が自らがインドで初めて成仏した仏ではなく、久遠の昔から仏様として常住していたことを明らかにします。そこに発迹顕本の醍醐味があります。
つまり、『インドで修行して成仏したお釈迦様』という姿は迹(仮の姿)であり、その迹を開いてみると、その根本には久遠から存在していた仏様の本地があったということです。
ここで重要なのは、単に『お釈迦様は久遠からの仏様だった』という事実が追加されたというだけではありません。その久遠実成が明かされることによって、それまで理論として説かれていた一念三千のお覚りの全体がお釈迦様自身の生命において具体的に示されることになります。
これが事の一念三千になります。
そして、日蓮宗では、そのお覚りの全体を御図顕あそばしたのが御本尊になるという解釈をされています。
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。
観心本尊抄
※一念三千を知らない末法の衆生のために、仏が大慈悲を起こし、妙法蓮華経の五字の中に一念三千という珠を包み、それを末代の幼稚な衆生の首に懸けさせる。
ここでは、信心の功徳により、誰でも一念三千の成仏を体現できるようにしたと説いてます。
つまり、迹門では、単に一念三千の理論のみが説かれている状態であり、本門では、その一念三千を体現する仏様の本地が顕されるという構造になっています。
だから、日蓮宗ではその本地が御図顕された御本尊を信仰し礼拝し帰依する対象にしています。
要するに、本迹相対の核心は、理として説かれた一念三千から仏の本地において顕された事の一念三千へというところにあります。
繰り返します。この理の一念三千と事の一念三千の違いを明確にするために、日蓮は有名無実と本無今有という二つの失を挙げています。
つまり、有名無実の失とは、一念三千という名前や理論はあっても、それに相当する実体がまだ明らかになっていない状態です。
そして、本無今有の欠点とは、本来あるべき本地の姿である根本が明らかになっておらず、現在になって初めて現れたように見える状態のことになります。
つまり、迹門だけを見れば、一念三千という法理は説かれていても、その法理を久遠から体現している仏の本地がまだ明らかになっていないということです。
だからこそ、日蓮はそれを水中の月や根無し草に譬えたということになります。
水中の月は、月そのものが存在しないわけではありません。本当の月は天にあります。しかし、水面に映った月だけを見て、それを本物の月だと思ってしまえば、本当の月を見失ってしまいます。
同じように、迹門には一念三千の理はあります。しかし、発迹顕本によって本地が明らかにならなければ、その理を体現する仏様の生命が明確になりません。
つまり、ここでのポイントは、迹門で説かれた理の一念三千に対し、本門では発迹顕本(久遠実成)によってその本地を明らかにし、事の一念三千(生命の極理そのもの)というさらに深い境地が示されているということです。そのため迹門と本門を比較相対したときには、本門の方が勝れた教えということになります。
五重相対の第五段階目は種脱相対というものになります。
種脱相対とは、仏法の種と脱を比較相対して、その勝劣を判定する法門のことになります。
種脱相対を理解するためには、まずは種熟脱の三益について知る必要があります。
種とは下種益のことで、まず仏様が仏法を説いて、始めて衆生の心田に仏種を蒔くこととされています。
熟とは熟益のことで下種された仏種を育て調熟することになります。
そして、脱とは脱益のことで育成された仏種が成熟して、解脱することとなります。つまり、種熟脱の法門は、衆生を成仏させるための流れとなっています。
では、仏になるための種とは何なのかといえば、それが妙法蓮華経になります。
三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり
秋元御書
では、最初の下種がされた時とはいつなのかといえば、それが久遠元初になります。
その当時、何の教えもないときに一人の聖人がいました。その方はご自身の生命を深く内観し悟りを開かれます。
釈迦如来、五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして、即座に悟りを開きたまいき。
三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)
そして、その生命の極理が南無妙法蓮華経だとお覚りになります。
それはまさしく宇宙法界即我の境地だとも説かれています。
万法は己心に収まりて一塵も欠けず、九山八海も我が身に備わりて、日月・衆星も己心にあり。
蒙古使御書
そして、覚りの功徳を受け楽しむために、自分も南無妙法蓮華経と唱えては、人にもこれを勧めていきました。
この法を聞く大衆には純縁と逆縁の二つの反応に分かれました。
素直に信じて、南無妙法蓮華経と唱えた人たちにおいては一生のうちに成仏を遂げることができました。しかし、一方で、疑い反発したり、罵ったりした人たちにおいては、成仏に失敗し、悪道に堕しては輪廻転生を繰り返し、修行のために長い長い時間を過ごすことになります。
この逆縁の人たちを救うために、今度は、三十二相で身を飾った垂迹の仏様が登場することになります。依頼、五百塵点劫・三千塵点劫などの長い時間の間で様々な仏様が出現し、氣の遠くなるような長い時間をかけて仏種を育てて、ようやく最後の脱益の総仕上げに出現したのがインドのお釈迦様になります。
そして、お釈迦様の御化導は、これまで述べてきたように、まずは、爾前経や迹門を説いていかれます。そのように仏種を調熟し、そして、最終的には本門寿量品を説いて久遠元初の根源の仏種を覚知させ、成仏に導いてきたというものになります。
ちなみに、お釈迦様が御在世の説法からもれてしまった人たちにおいては、その後の二千年間に及んで様々な種類の仏教(小乗経・大乗経・実大乗)の縁に触れ、一人残らず成仏していき、そこでお釈迦様の役割は完結することになります。
ですので、現在に色濃く残っている、様々な仏教は、種熟脱の法門を一通り完成させた後の余韻になります。
そして、時が進み、末法と呼ばれる時代に突入します。その時代においては、過去に下種を受けた者が一人もいない時代となります。つまり、時計の針が一周するかのように末法は久遠元初と同じような時代になります。
末法とはお釈迦様滅後の二千年後以降の時代となります。その時代においては白法隠没といって、お釈迦様がそれまで説いてきた仏教には効力がなくなると説かれています。例えば、それは食べ物に賞味期限があるようなイメージになります。また同時に闘諍堅固といって、人の心が荒れ果てる時代になるというのが説かれいます。
そのため、お釈迦様はもう一つ重大な予言を残されることになります。
その予言内容を簡潔にいえば、末法の時代には日蓮が出現すると説かれています。そしてそのとき南無妙法蓮華経を広めることで、衆生の心田に仏種を下し、成仏へ導くというものになります。
ちなみに、ここでのポイントは下種益(南無妙法蓮華経)の中には、そもそも種・熟・脱の三益が含まれているという点にあります。一方で熟益・脱益においては、生まれ変わりを何度も繰り返す歴劫修行が基本となっています。そのため下種益と脱益を比較相対したときには、下種益の方が勝れた教えということになります。
以上、これまでの五十相対の内容を簡潔にまとめたのが以下の図になります。

法華経に説かれる予言証明とは
お釈迦様の説法の目的は御在世の衆生の救済と、未来に日蓮が誕生することを予言証明することにあります。そして、いずれ日蓮が南無妙法蓮華経を広宣流布させ、全人類を救うと説かれています。
もちろん、仏教の経文には、日蓮という言葉はどこにもでてきません。ただし、法華経には、末法の世に上行菩薩が現れると説かれています。そのことは、日蓮宗を理解する上で最も重要になってきます。ですので、ここから先においては、法華経の概要と、それと結びつく日蓮のお振る舞いの要点をお伝えしていきます。
それではまずは法華経の大まかな内容についてふれていきたいと思います。
法華経の初めの序品の内容では、まず釈尊が霊鷲山で大勢の弟子・菩薩・天龍八部(天界の神々・龍神・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽)などに囲まれた際に法華経を説くための瑞相を示されます。
爾時世尊四衆囲遶、供養恭敬、尊重讃歎、為諸菩薩説大乗経、名無量義、教菩薩法、仏所護念。
法華経(序品第一)
※爾の時に世尊は四衆に囲遶せられ、供養・恭敬・尊重・讃歎せられて、諸の菩薩の為に大乗経を説きたもう。名づけて無量義、菩薩を教うる法、仏の護念したもう所なり。
そして、法華経の開経たる無量義経を説いたのち、いよいよお釈迦様の眉間にある白毫から光を放つなどの瑞相が現れます。
是時仏放眉間白毫相光。照東方万八千土、皆如金色。
法華経(序品第一)
※是の時、仏、眉間の白毫相の光を放ち、東方万八千の土を照らすこと、皆な金色の如し。
そして、この瑞相を見て弥勒が文殊に尋ねます。
今仏世尊、現神変相。以何因縁而有此瑞。
法華経(序品第一)
※今、仏世尊は神変の相を現じたまう。何の因縁を以って此の瑞あるや。
『何の因縁か?』という問いに対して文殊菩薩は法華経を説く予兆であることを説明します。なぜなら、過去世において、法華経を説いた日月燈明仏が現した姿も、今のお釈迦様の姿も全く同じ瑞相を放っていた故となります。
我見燈明仏、本光瑞如此。以是知今仏欲説法華経
法華経(序品第一)
※我、燈明仏を見たてまつりしに、本の光瑞此の如し。是れを以て知んぬ、今の仏も法華経を説かんと欲するならん。
つまり、序品の要点は、法華経を説くための序章ということになります。
つづいての方便品の内容では、一念三千の基礎となる諸法実相(十如是)や開三顕一が説かれます。
唯仏与仏 乃能究尽諸法実相。
法華経(方便品第二)
※唯だ仏と仏とのみ、乃ち能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等。
法華経(方便品第二)
※所謂る諸法は、是の如き相、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本末究竟等なり。
十如是では、一つの事物・現象には、姿・形だけではなく、目に見えない働き・性質・因果などが備わっていると説かれています。
- 相:外に現れている姿・形
- 性:内に備わっている性質
- 体:本体・主体・身体
- 力:内に備わる能力・力
- 作:その力が外に働いて起こす作用
- 因:結果を生じさせる直接的な原因
- 縁:因を助け、結果を生じさせる条件
- 果:因縁によって生じる結果
- 報:結果によって受ける報い
- 本末究竟等:最初の『相』から最後の『報』まで、すべてが究極的には一貫していること
本末究竟等とは最初の相を本と捉え、最後の報を末と捉え、それぞれがバラバラなのではなく、相から報までが一貫して諸法の実相を表したものとなっています。
十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三。
方便品
※十方の仏土の中には、唯だ一乗の法のみ有り、二も無く、亦た三も無し。
そして、宝塔品において、お釈迦様は居並ぶ弟子大衆に向かって法を広めることを三回にわたり強く促します。
以神通力、接諸大衆、皆在虚空。以大音声、普告四衆 誰能於此娑婆国土、広説妙法華経、今正是時。如来不久、当入涅槃。仏欲以此妙法華経、付嘱有在
※神通力を以て諸の大衆を接して、皆虚空に在きたもう。大音声を以て、普く四衆に告げたまわく、誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして、当に涅槃に入るべし。仏此の妙法華経を以て、付嘱して在ること有らしめんと欲す
告諸大衆、我滅度後、誰能護持、読説斯経、今於仏前、自説誓言。
※諸の大衆に告ぐ、我が滅度の後に、誰か能く此の経を護持し読誦せん。今仏前に於いて、自ら誓言を説け。
諸善男子、各諦思惟、此為難事、宜発大願。
※諸の善男子、各々諦らかに思惟せよ。此れは為れ難事なり。宜しく大願を発すべし。
そしてつづいての提婆達多品では、悪人成仏と女人成仏を示され諫暁します。
つまり、ここまでの迹門の流れを通して、法華経にはすべての人を成仏させるという醍醐味が説かれています。
そして、勧持品では、その法華経の醍醐味にふれた菩薩たちが、悪世において法華経を弘める際、いかなる迫害をうけようとも身命を惜しまずに耐え忍ぶことを誓います。
諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖 我等皆当忍
勧持品
※諸の無智の人、悪口罵詈等し、及び刀杖を加うとも、我等皆当に忍ぶべし
為説是経故 忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道
勧持品
※是の経を説かんが為の故に、此の諸の難事を忍ばん。我、身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ。
仏方便随宜 所説法不知 悪口而嚬蹙 数数見擯出
勧持品
※仏の方便随宜して所説の法を知らず、悪口して而も嚬蹙し、数数擯出せられん。
ここでの要点は、悪口罵詈等・及加刀杖・数数見擯出の文言になります。ただし、これらの文言は不惜身命の決意を述べる菩薩たちが自らの意思で述べた言葉ではありません。実はそこにはお釈迦様の仏力が関与しています。
つまり、お釈迦様が神通力によって、『悪口罵詈等・及加刀杖・数数見擯出』などの文言を弟子たちに言わせたのとなります。それと同時に、それらの大難を受けようとも、身命を惜しまずに法を広める人がでてくることを密かに予言されたものになります。
皆是仏之威力
法華経(勧持品第十三)
※皆是れ仏の威力なり
ちなみに、鎌倉時代は阿弥陀信仰が流行していたため、人々の多くは念仏を唱えていたとされています。しかし、日蓮は念仏ではかえって無間地獄に堕ちる要因になると説明されます。またその他の各宗派の欠点もそれぞれ示しては強烈に批判されます。
日蓮一人・阿弥陀仏は無間の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗・持斎等は国賊なりと申す
秋元御書
その反応として、多くの反発を受けることになります。
そして次第に、悪口罵詈はもちろんのこと、数数見擯出(たびたび島流しにあうこと)や及加刀杖の法難を受けることになります。
数数見擯出の難においては、伊豆への流罪と流罪への佐渡流罪のことになります。
そして、及加刀杖の杖においては少輔房という人物に法華経第五巻で顔を打たれたことを指します。ちなみに、このとき杖として使用された法華経第五巻はちょうど勧持品(及加刀杖)が文言がのっていたところになります。
そして、及加刀杖の刀においては小松原の法難と竜の口の法難の二度にわたります。
また、竜の口の法難(国家権力による死刑)を受けた際、刀が折れたとの歴史的な記述がありますが、実はそれすらも経文に示されています。
或遭王難苦 臨刑欲壽終 念彼觀音力 刀尋段段壞
観世音菩薩普門品第二十五
※或は王難の苦に遭いて、刑せらるるに臨んで寿終らんと欲せんに、彼の観音の力を念ぜば、刀尋いで段段に壊れなん。
さて、話を元に戻します。
お釈迦様から法を弘めることの重要性などを聞いた弟子たちは、そのお釈迦様の期待に応えるために、不惜身命の誓願を立てることになります。
しかし、お釈迦様は、『自ら誓願を立てよ』と促しておきながらも、『やみね』の一言でもって、弟子らの弘通の意氣込みを制止されます。
爾時仏告諸菩薩摩訶薩衆。止。善男子。不須汝等。護持此経。所以者何。我娑婆世界。自有六万。恒河沙等。菩薩摩訶薩。一一菩薩。各有六万。恒河沙眷属。是諸人等。能於我滅後。護持読誦。広説此経。
法華経(従地涌出品第十五)
※爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、「止みね、善男子。汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん。我が娑婆世界には、自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り。その一一の菩薩に、各六万恒河沙の眷属有り。是の諸人等、よく我が滅後において、護持し、読誦し、広く此の経を説かん」
ちなみに、『やみね』と制止された理由は、その場にいたお釈迦様の弟子たちでは、縁が薄く、また、悪口罵詈・及加刀杖・数数見擯出などの大難に耐え忍ぶことができなかったり、当時は未だ法華経を弘める時機ではなかったためです。
そして、この娑婆世界(地球)には六万恒河沙という多くの菩薩が存在することを説き、その菩薩たちが、末法においては法華経を護持し、読誦し、弘めていくことを明かされます。
その直後、その場の大地が震裂して、その中から大勢の菩薩たちが大地の底より招きいだされます。
仏説是時。娑婆世界。三千大千国土。地皆震裂。而於其中。有無量千万億。菩薩摩訶薩。同時涌出。是諸菩薩。身皆金色。三十二相。無量光明。・・・是菩薩衆中。有四導師。一名上行。二名無辺行。三名浄行。四名安立行。是四菩薩。於其衆中。最為上首。唱導之師。
法華経(従地涌出品第十五)
※仏、是れを説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂して、其の中より、無量千万億の菩薩摩訶薩あって、同時に涌出せり。是の諸の菩薩、身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり。・・・是の菩薩衆の中に、四導師有り。一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、其の衆の中に於いて、最も為れ上首、唱導の師なり。
大地より出てきた菩薩たちのことを総称して地涌の菩薩と呼びます。その先頭に立たれていたのが四人の菩薩になります。それぞれ、上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩とされています。
いずれ、この四人の菩薩並びに六万恒河沙というおびただしい地涌の菩薩たちは末法の世にて生まれでて、全人類の闇を滅するとされています。
現代社会に住む私たちの見識・常識の範囲内では、大地がわれて、その中から沢山の金色に輝く菩薩たちが出てくるのは『ありえない』との一言に尽きます。
同じように、それを目の前の現実にした弥勒菩薩をはじめとするその場にいる全員も『ありえるはずがない』との思いを胸に抱きます。ちなみに、弥勒菩薩は華厳時の最初の頃より、お釈迦様の説法を見聞きしてきた人物です。その人物においてすら、当時の状況がまったく理解できず、『これはいったいどういうことですか?願わくばこれを説いてください』との言葉をなげかけます。
そのような形で寿量品においては三請・三誡・重請・重誡という儀式を示されます。そして、その上でついにお釈迦様の本地が解き明かされるという構造になっています。
爾時佛告諸菩薩及一切大衆諸善男子。汝等當信解如來誠諦之語。復告大衆。汝等當信解如來誠諦之語。又復告諸大衆。汝等當信解如來誠諦之語。是時菩薩大衆。彌勒爲首合掌白佛言。世尊。唯願説之。我等當信受佛語。如是三白已。復言。唯願説之。我等當信受佛語。爾時世尊。知諸菩薩三請不止。而告之言。汝等諦聽。如來祕密神通之力。一切世間天人及阿修羅。皆謂今釋迦牟尼佛。出釋氏宮。去伽耶城不遠。坐於道場。得阿耨多羅三藐三菩提。然善男子。我實成佛已來。無量無邊百千萬億那由他劫。
※爾の時に仏、諸の菩薩及び一切の大衆に告げたまわく、諸の善男子、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。復た大衆に告げたまわく、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。又復た諸の大衆に告げたまわく、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。是の時に菩薩大衆、弥勒を首として、合掌して仏に白して言さく、世尊、唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし。是の如く三たび白し已って、復た言さく、唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし。爾の時に世尊、諸の菩薩の三たび請じて止まざることを知ろしめして、之に告げて言わく、汝等諦かに聴け。如来の秘密神通の力を。一切世間の天人及び阿修羅、皆謂えらく、今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出で、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり。
ここにおいて、お釈迦様は久遠実成の本地を顕し、そして神力品において、それまでお釈迦様が衆生を成仏に導くために説かれてきた法のバトン(一切の教法)を上行菩薩に付属されます。
以要言之。如来一切所有之法。如来一切自在神力。如来一切秘要之蔵。如来一切甚深之事。皆於此経。宣示顕説。
法華経(如来神力品第二十一)
※要を以て之を云わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す
そして、お釈迦様は上行菩薩の徳の偉大さを讃嘆して次のように述べています。
如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇
法華経(如来神力品第二十一)
※日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅せん
さて、ここで一度、これまでの話をまとめます。
お釈迦様が説法を通し、この世の真理や生命の実相を説かれてきた目的は大きく分けると以下の二つにいきつきます。
- お釈迦様が生きていた当時且つお釈迦様後入滅後の約二千年間にわたり衆生を成仏させるため
- 未来(お釈迦様滅後の二千年後の末法の時代)において全人類を救済するために上行菩薩の再誕として日蓮が生まれでてくることを予言証明するため
そして、おそらく日本の皇族とされている人物の中には、そのことを知り法華経を受容し振興してきた人物がいます。それがかの有名な聖徳太子(厩戸皇子)になります。聖徳太子といえば十七条の憲法が有名ですがの中で次のような内容を大切にすべしと説いています。
- 一にいわく、和を以って貴しとなし、忤うことなきを宗とせよ。
- 二にいわく、篤く三宝を敬え。三宝とは佛・法・僧なり。
- 三にいわく、詔を承りてはかならず謹め。
- 四にいわく、群卿百寮、礼をもって本とせよ。(※群卿百寮とは当時の政治制度を運営する官僚組織のことになります。上の立場にある者たちが礼を失うと、下の立場にいる民衆の秩序も乱れ、犯罪が起こりやすくなり、逆に礼を根本にするとき、社会秩序は乱れず世は安泰になるため、礼を根本とせよと説かれています。ちなみに礼の秘密について知りたい方は以下の記事よりご覧いただけます。)
ここで大切なことは日蓮宗の土台となっている三宝の捉え方についてになります。その解釈については次のようになっています。
- 佛(仏)=お釈迦様
- 法=法華経(南無妙法蓮華経)
- 僧=日蓮(上行菩薩)
つまり、その三宝の力でもって世界を平和にできると信じているのが日蓮宗の特徴となります。
一旦、それら仏・法・僧などの三宝が、本当に力をもっているのか?どうかはおいておきます。
しかしながら、日蓮の生き方・在り方からは非常に多くの学びを受け取ることができるものとなっています。以下、その内容を要約してお伝えしていきます。
日蓮が御在世のその当時、彼は自分が法を弘めるのであれば、必ず度重なる法難を受けることになることを自覚されていました。それは、これまで見てきたように経文の中に、法華経(南無妙法蓮華経)を弘めるのであれば迫害を受けるということが密かに示されていたからです。
しかし、日蓮はいかなる大難が起きても不退の決意を示されていました。その決意の内容を開目抄には次のように書かれています。
日本国に此れをしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠・国主の王難必ず来るべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕べし。いうならば三障四魔必ず競い起るべしとしりぬ。・・・今度強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ。・・・詮ずるところは天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん。・・・善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。本と願を立つ。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ。父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり。其の外の大難風の前の塵なるべし。 我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。
開目抄
※日本国にこれ(法華経に背く数々の謗法が悪道に堕ちる根本原因であること)をしれる者、ただ日蓮一人だけである。これを一言でも伝えるなら、父母・兄弟・師匠・国家権力を用いた難が必ず起きてくる。言わないのであれば慈悲が無きに等しい。法華経・涅槃経等に、この二辺(言うか言わないか)を照らし合わせてみると、言わないのであれば、今生は何事もないけれど、後生は(自他共に)必ず無限地獄に堕ちるであろう。言うのであれば三障四魔が必ず競い起ることを知る。・・・このたび強盛の菩提心(仏道に励む心)をおこして退転しないとの誓願を立てた。・・・詮ずるところは天もすて給え(諸天も怠慢をおこし守護せず、みはなすこともあろうが、捨てるのであれば捨てたまえとの意)、諸々の難にもあい、身命を失うこともあるであろう。・・・善悪にかかわらず、法華経を捨てるのは地獄に堕ちることにつながる。大願を立てておく。たとえ『日本の国主としての地位を譲り与えるから法華経を捨てて観経等について後生を願え』とか『念仏を唱えないのであれば、父母の首を刎ねる』と脅されても、智者に我が義(成仏する唯一の法は南無妙法蓮華経だとする見解・教義)がやぶられないのであれば、そのような言葉は受け入れない。その他の大難は、父母を殺すなどの脅しに比べれば取るに足らず、風が吹けば簡単に飛ばされてしまう塵のようなものである。我は日本の柱となる。我は日本の眼目となる。我は日本の大船となる。これらの誓願はやぶらない。
つまり、日蓮は、成仏の大法を弘めることにより、かえって多くの人々から多大な怨嫉を受けることをあらかじめ知っていました。それを百も承知の上で立宗宣言しては、その後、まもなくして1260年には立正安国論を完成させ、それを北条時頼に奏進します。
そこからは、いよいよ多くの人々から、ときに憎まれ、ときに恨まれ、ときに妬まれ、そして、ときに島流しを受けたり、ときに国家権力を用いた死刑にされるなど、数々の大難が彼に襲いかかります。
ちなみに、立正安国論の中にはいくつかの経文を証拠として七難がくることを予言されています。
薬師経に云く『若し刹帝利・灌頂王等の災難起らん時、所謂人衆疾疫の難、他国侵逼の難、自界叛逆の難、星宿変怪の難、日月白薄の難、非時風雨の難、過時不雨の難あらん』
立正安国論(薬師経)
※薬師経にいわく『若し刹帝利・灌頂王等(王族・国主等)によって災難が起こる時には、いわゆる民衆に流行病が広がる難、他国から侵略される難、自国内での反乱の難、星宿が異変を起こす難、日月が薄蝕する難(日蝕・月蝕などが起こったり、太陽の光が薄れたりする難)、時節はずれの暴風雨の難、時が過ぎても雨が降らない難がある。
立正安国論の中には、その他の経文も示した上で、食物が育たなくなり飢饉が続くことや、人の心がおかしくなり、怒りを制御できなくなる人が増えたり、人が人を殺すような時代にもなると説かれいます。
そういった災難の根本原因は法華経に背く謗法にあるとの論理を並べた上で、結論としては、南無妙法蓮華経を唱えるべしと勧められています。
しかし結果的には、かえって多くの反発を受けることになり、挙げ句の果てには1271年9月12日に竜の口の法難を受けることになります。また、死刑による斬首が失敗した幕府は、つづいて日蓮を佐渡へ流罪することを決めます。
そして日蓮が佐渡へ流罪された数ヶ月後に、自界叛逆の難が起きます。それがいわゆる二月騒動にあたります。当時、幕府の中心人物は北条時頼から北条時宗に代わっていた時代となります。しかし、北条時宗の義母兄にあたる北条時輔や名越氏なども、幕府の主導権を握るにたる有力な人物たちでした。
そして、幕府内での緊張が高まっていた頃に、『謀反を企てている』と疑いをかけられ、北条時輔や名越時章・名越教時などが殺害されます。のちに証拠が見つからず、とくに名越時章においては、完全に謀反の事実がなかったとされ、誤殺だったことが判明します。
そのため、名越時章の討伐に加担した北条時宗側の武士たちも、結局のところ後に処刑されます。
つまり、二月騒動とは身内内での混乱が引き金となった仲間割れになります。
この自界叛逆の内容の報を聞いた日蓮は翌月に佐渡御書を書き表します。その中の一説には次のようにあります。
現世に云をく言の違はざらんをもて、後生の疑をなすべからず。
佐渡御書
つまり、ここでは自界叛逆の難などのあらかじめ予言されてきた内容が現実に起きてきたという事実をもって、後生の内容も疑ってはならないと釘をさされれているということです。
そして、残すところの難(他国侵逼の難)も現実に起きるのあれば、いよいよ法華経に背くのであれば地獄に堕ちるとの予言の言葉においても正確性が高まるということにつながっていきます。
時しばらくして、これまで言ってきたことが現実に符合してきたことや、そもそも日蓮に何の罪もなかったことを知った北条時宗が赦免状を送られます。
そして、鎌倉に戻られた日蓮は、1274年4月8日に平左衛門尉頼綱という人物(竜の口の法難の際、斬首に至る計画を主導した中心人物)と対面されます。そのとき、平左衛門は『他国侵逼の難(蒙古襲来)はいつ頃くるのか?』という質問をします。その際、日蓮はあらためて『今年を過ぎることはない』との予言を残されます。
経文にはいつとはみへ候はねども、天の御気色いかり少なからず、急に見へて候。よも今年は過ごし候はじ
撰時抄
※経文には蒙古がいつ来るかまでは書かれていない。しかし、天の様子(諸天の怒り)は非常に激しく、事態が急迫しているように見える。もう今年を過ぎることはないだろう
そして実際に1274年10月に文永の役が起きます。また七年後の1281年には弘安の役が起きています。ここに、立正安国論で予言した七難の内容が全てピタリと符合することになります。
繰り返します。日蓮は立正安国論をもって他国侵逼の難や自界叛逆の難などが起きてくると予言し、それらが見事的中します。ということは、後生に予言した『法華経に背くのであれば地獄に堕ちる』との予言においても当てはまることになります。
つまり、『現世に云をく言の違はざらんをもって、後生の疑をなすべからず』とは、後生の大苦を救うための発言になり、その言葉は日蓮の慈悲を要約したものになります。
要するに、それまで他宗を強く批判してきたのも、強烈な言葉や行動を示してきたのも、全ては堕獄の苦しみを取り除くためであったことが分かります。
このような日蓮の示した生き方(在り方)からは非常に多くのものが学べるのではないでしょうか?
そして、そこから受け取れるインスピレーションを機に、また新しい何かの発展にもつながっていくと思います。だから、宗教の内容を知らないまま毛嫌いする人もいますが、まずは、ちゃんと理解することも大切になると個人的には感じています。
さて、ここまで、経文や御書の書かれている証拠を頼りに、日蓮宗の特徴をお伝えしてきました。
ですが、私がこの記事を通して通して本当に伝えたいことは、そこにはありません。
つまり、経文や御書に書いてあること・誰かの言葉・何かの教科書。
その中に、人生の答えはないということです。
それらは、あくまで人生の参考書でしかありません。
もちろん、何かを学ぶことは大切になります。ですが、それらは、あなた自身がどうのように生き、どのように感じるのか?までは説かれていません。いや、説くことができません。
なぜならこの世に生まれた私たちには自由意思があるからです。
- 『これは善の中の最善』
- 『これは正しい・あれは間違っている』
- 『このように生きなければならない』など、
そのように説いている学問・宗教があったとしても、その瞬間に、
『あなたの心が何を感じているのか?』を感じ取れるのは、あなたしかいません。
だからとて、自分の心だけを信じて進めばいいと伝えたい訳じゃありません。
むしろ逆です。
いろんな教え学び、その教えを実践したり、言葉の奥に隠された意味を知ったりすることも大切になると思います。そして、様々な視点から歴史を紐解くことで、やがて『本質』を見極めることのできる眼が身につきます。
記事の中間地点ではありますが、ここで、この記事の中で一番伝えておきたいことを述べておきます。
それは宗教上における本質論についてです。
数多の宗教で説かれている生命や宇宙の真理とされる本質とは、様々な視点によって幾重にも姿・形を変えながらも、その無限にあるすべてのものを内包する一つのものということになります。
つまり、日蓮宗で説かれている内容もまた、別の視点から見ることで、その姿・形を変えるということです。もっと端的に言えば正しいものだと思っていた解釈が、別の角度から捉えることで、それは間違っている内容にもなりえるということです。
また日蓮宗とはメタファーになります。つまり、これまで述べてきた外道(儒教・キリスト教・新興宗教など)や爾前経(念仏・真言・禅・律・般若など)等においても同様のことが言えます。
それらも、ある一面から見れば一つの真理を説き顕しています。しかし、この宇宙にある世界線が無数にあるのと同じように、真理と呼ばれるその答えもまた一つではありません。
つまり、多極に異なる枠組みがあるからこそ、その枠の中から一歩抜け出ることが大切になるということです。それが洗脳から抜け出る秘訣になります。
日蓮の教義における三宝について
さて、ここからは、いよいよ本題である日蓮宗の洗脳の解き方についてお伝えしていきます。
日蓮宗の洗脳を解くために必要なことは大きく分けると二つになります。
それは、その日蓮宗が説いている教えの中から矛盾している箇所を把握することと、二つ目には、日蓮宗以外からの新しい視点による情報を取り入れ視野を広げることになります。
さて、まずは日蓮宗の教義の矛盾点についてお伝えしていきます。
その最大の問題点は血脈相承にあります。
血脈相承とは、師匠から弟子へ仏教の正統な教え・法そのものが受け継がれることを言います。
つまり、法華経の説法の中で、お釈迦様が、五十年間にわたって説いてきたそれまでの法を上行菩薩に付属した儀式と同様のものとなります。
日蓮はその儀式を日興上人という人物に行っています。
日興上人は竜の口の法難のときも、佐渡へ流罪されたときも片時も日蓮の側を離れず常随給仕していたと伝えられています。また、日興上人は、ある日、水に映る日蓮の影を『南無妙法蓮華経』の御本尊と見ては、それをそのまま文永5年(1268年)10月13日に書き顕しています。それは飛び曼荼羅のご本尊と称され、現在は仙台にある仏眼寺という場所で保管されています。
それはさておきます。
ここでは血脈相承と法の付属に関する内容をご紹介します。
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日蓮 在御判
血脈の次第 日蓮 日興
一期弘法付嘱書
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家どもの輩は悲法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日 武州池上 日蓮 在御判
身延山付嘱書
お釈迦様は法華経の説法の中で、それまで説き顕した法のバトンを上行菩薩に対して付嘱されていますが、それを今度は、日蓮がそのまま日興上人に付嘱したということになります。
細かい説明は省略しますが、日興上人の後継者は日目上人になります。そして、その血脈の流れを代々受け継いできているのが、富士大石寺(日蓮正宗)になります。
そして、日興上人は二六箇条の遺誡置文の中で『富士の立儀聊かも先師の御弘通に違せざる事』と述べられています。そして同時に『五人の立儀一々に先師の御弘通に違する事』と書き示されています。
つまり、日蓮の仏法を正しく伝えている唯一の正系門家は、日興上人の血脈を受け継いでいる富士門流(富士大石寺)のみとなります。すなわち、身延山久遠寺の流れを汲む現在の日蓮宗は、日興上人の遺誡に背いているということになります。ちなみに、立正校成会や霊友会などの新興宗教は、もはや論外のものとなります。
ちなみに日蓮宗が身延山久遠寺を祖山(ゆかりの地)としているのには、主に波木井殿御書に基づく見解を取り入れている故となります。
その中の一説には次のように書かれています。
釈迦仏は霊山に居して八箇年、法華経を説き給ふ。日蓮は身延山に居して九箇年の読誦なり。伝教大師は比叡山に居して三十余年の法華経の行者なり。然りと雖も彼の山は濁れる山なり。
我が此の山は天竺の霊山にも勝れ、日域の比叡山にも勝れたり。然れば吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、此の山には妙法の五字を唱へずと云ふことなし。日蓮が弟子檀那等は此の山を本として参るべし。此れ則ち霊山の契りなり。此の山に入りて九箇年なり。仏滅後二千二百三十余年なり。
・・・
釈迦仏は天竺の霊山に居して八箇年法華経を説かせ給ふ。御入滅は霊山より艮に当たれる、東天竺・倶尸那城・跋提河の純陀が家に居して入滅なりしかども、八箇年法華経を説かせ給ふ山なればとて御墓をば霊山に建てさせ給ひき。されば日蓮も是の如く、身延山より艮に当たりて、武蔵の国池上右衛門の大夫宗長が家にして死すべく候か。
縦ひいつくにて死に候とも、九箇年の間心安く法華経を読誦し奉り候山なれば、墓をば身延山に立てさせ給へ。未来際までも心は身延山に住むべく候。
波木井殿御書
※釈迦仏は霊鷲山に居して、八年間、法華経を説いた。日蓮は身延山に居して(住んで)、九年間、読誦した。伝教大師は比叡山に居して、三十余年にわたって法華経を修行した者である。しかし、比叡山は濁れる山なり。(※濁れる山になったとの意)
我(日蓮)の住むこの身延山は、天竺(インド)の霊鷲山にも勝り、日本の比叡山にも勝っている。だから、この山では、吹く風も、揺れる木や草も、流れる水の音までも、この山にはすべてに妙法蓮華経の五字が唱えられている。日蓮の弟子や檀那たちは、この山を根本の場所として、ここへ参りなさい。これすなわち、霊鷲山との深い契り(縁)になる。この身延山に入ってから、九年間になる。これはお釈迦様が亡くなられてから、二千二百三十余年になる。
・・・
釈迦仏は天竺(インド)の霊鷲山におられて、八年間、法華経を説かれてきた。ご入滅の最期は、霊鷲山から北東の方角にあたる東インドの拘尸那城(クシナガラ)、跋提河の純陀の家に居して(住んで)入滅されました。しかし、八年間にわたって法華経を説かれた山であるという理由から、そのお墓は霊鷲山に建てられている。故に、日蓮もこれと同じように、身延山から北東の方角にある武蔵の国池上の、右衛門大夫宗長の家で死ぬこともあろう。
たとえどこで亡くなったとしても、九年間にわたって心安らかに法華経を読誦し奉ってきた山なのであれば、墓は身延山に建てさせるように。未来永劫にわたって、心は身延山に住みつづけるであろう。
上記の内容で特に重要な箇所は三つになります。
- 修行や悟りの象徴となる山(霊山・比叡山)などと対比して、密かに仏法の勝劣を判じ、日蓮の弟子・檀那たちに対しては、身延山を参拝の根本の場所として認定していること。
- 後入滅前の九年の間、ずっと身延で法華経(南無妙法蓮華経)を読誦してきたのであるから、日蓮の後入滅後においても、未来長きにわたって、日蓮の心は身延山に住みつづけるとしていること。
主に上記の二つの理由などにより、日蓮宗では身延山の伝統を受け継いでいます。
また、身延に縁があったことは、日蓮の晩年の歴史に示されているところでもあります。
しかしながら、もう一つ、さりげなく重要なことも書き示されています。
それは、『伝教大師は比叡山に居して三十余年の法華経の行者なり。然りと雖も彼の山は濁れる山なり』の部分になります。
これはどういうことかと言えば、選時抄を拝見することで理解することができます。その中の一説には比叡山が濁った山になったことについて言及し、『百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり』とあります。
伝教大師(最澄)は、当時の奈良仏教の主要な宗派であった南都六宗(三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗)に対して、法華経の立場を打ち出した人物になります。
桓武天皇の庇護のもと、延暦21年(802年)には高雄山寺において南都の学僧たちと論議を行い、その後も教義論争を続けたとされています。最澄の目的は、法華経を根本とする実大乗の戒壇を比叡山に設立することにありました。
最澄自身は、その実現を見ることなく弘仁13年(822年)に入滅しますが、その入滅から一週間後には戒壇の建立が嵯峨天皇により正式に許可され、比叡山における戒壇建立が実現されています。そして、そのような功績を讃え、866年には清和天皇からは『伝教大師』という諡号が贈られます。
つまり、伝教大師は、奈良仏教の諸宗に対して法華経の立場を示し、教義上の論争を重ねるだけでなく、法華経を根本とする日本独自の仏教制度を確立した人物にあたります。
ちなみに一説によれば伝教大師は天台大師の生まれ変わりとされており、その天台大師は薬王菩薩の生まれ変わった人物とされています。
夫れ天台大師は昔霊山に在ては薬王と名け、今漢土に在ては天台と名け、日本国の中にては伝教と名く
立正観抄
像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して、百界・千如・一念三千其の義を尽せり。但だ理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず。
観心本尊抄
しかし、その後、比叡山の第3代目の座主についた慈覚という人物は『真言宗は法華経より勝れている』と言い出して謗法(邪義)を取り入れるようになります。
本来であれば、座主とは鎮護国家の根本的な立場として、謗法を取り締まるべき立場にあたります。しかし、師の教えを逸脱し、比叡山延暦寺の歴史を穢してしまった故に、『百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり』と述べられています。
これは私の勝手なる推測にはなりますが、日蓮が波木井殿御書の中で、『伝教大師は比叡山に居して三十余年の法華経の行者なり。然りと雖も彼の山は濁れる山なり。』との一文を残したのもおそらく、未来においても(歴史を繰り返すように)身延山が濁れる山になることを密かに暗示した可能性もあると思います。
その推測はさておきますが、実際、日蓮の滅後の後、身延においては、数々の謗法(仏像崇拝や神社参拝など)を取り入れるようになっています。
ただし、日蓮はあらかじめ、次のような言葉を残されています。
地頭の不法ならん時は我も住むまじき
美作房御返事
※地頭(身延の地頭:波木井実長)の不法ならん時は(謗法をおかす時は)我も住まない。
そこで日興上人は、弘安二年に建立された本門戒壇の大御本尊(日蓮の魂そのもの)を携えて移動することを決意します。そして、縁あって、富士大石寺に到着することとなります。
余談ではありますが、富士大石寺の流れを汲む日蓮正宗の座主が66代・67代目に渡り、池田大作のことを『有徳王』と発言したり、正本堂という建物を指して『本門の戒壇』にあたると言い残したことも、まさに『百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり』になるかと思われます。それはさておきます。(詳細は日蓮正宗の洗脳の解き方!にて解説しています。)
重要なことは、富士の立儀においては、三宝をどのように解釈していたのか?ってことになります。
結論から先にお伝えいたします。それは以下の通りになります。
- 佛(仏)=日蓮大聖人
- 法=本門戒壇の大御本尊
- 僧=日興上人
この三宝の定義を理解するためには、経文や御書の意を解読する必要があります。
ちなみに、宗教の解読方法には4つの方法があります。以下は主に聖書を解釈する方法として知られるパルデスと呼ばれるものになりますが、仏教においても然りです。
| プシャット | 文章上何が書かれているのか? |
| レメズ | そこには何が暗示されているのか? |
| ドラッシュ | そこからどのような教訓を受け取れるのか? |
| ソット | その奥にある究極的・神秘的な意味とは何か? |
例えば、宗教上の物語で『彼は山に登った』との一説があったとします。
このとき、パルデスを使用して、文章を解読すると次のようになります。
- プシャット:『彼は山に登った』とする言葉を通常通りに捉える。つまり文章上の意味になります。
- レメズ:『山』が何を暗示しているのかを探ります。例えば、霊山・富士山・高次元・高い壁(困難な道のり)・精神的上昇などの可能性を検討します。つまり、文底の意味になります。
- ドラッシュ:『山に登った』背景から学べる心構え・生き方・在り方などの倫理観
- ソット:山・自然・森羅万象の究極の姿・形は自分そのものであったとか、あるいは彼が山に登ること然り、全ての物事は必然であったことなどを悟る段階。
つまり、日蓮の教義に関することにおいても文上の意味合いだけではなく、実は、文底の解釈・生き方(在り方)・究極的な秘義などがそれぞれ学びとれるようになっています。
法華経の要点における文上の意味や日蓮の生き様(在り方)については、ある程度お伝えしてきました。しかし、富士の流儀を把握するためには文底の意味合いを知る必要があります。
逆に文底の意味が分からないままだと、ところどころにおいて御書の書いてある内容を理解することができない状態になります。
例えば、先ほど紹介した観心本尊抄の一説にある『像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して、百界・千如・一念三千其の義を尽せり。但だ理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず。』などの文章も、よく理解することが出来ません。
ここで一旦、法華経における文上の意味についておさらいをします。その要点は法華経の迹門に理の一念三千を説き顕し、そして本門によって、事の一念三千を顕したものとお伝えしてきました。
ただし、文底の視点から捉えるとき、本門迹門ともに理の一念三千との解釈になります。要するに、但だ南無妙法蓮華経だけが、事の一念三千との意味になります。
つまり、文底が顕れた時点では、迹門も本門も、根本の法(一念三千)そのものを直接的に顕しているわけではないと捉えます。
一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底に秘して沈めたまえり
開目抄
第二章で紹介した五重相対の教義は、ここでの解釈においても通じるものとなっています。つまり、その意味合いとしては、権実相対においては『但法華経』との四文字が当てはまり、本釈相対においては、『本門寿量品』の五文字が当てはまります。そして、種脱相対に対しては、『文底秘沈』の四文字が該当します。
つまり、但の文字は一文字しかありませんが、その意味合いは三段に通じるものとなっています。三段とは、一念三千の法門は一代諸経の中には、『但法華経』の中にあるということであり、法華経の中には『但本門寿量品』の中にあり、本門寿量品の中には『但文底秘沈』の中にあるということです。
ちなみに、五重相対の概要は浅い教えを示した上で、深き教えを開示するというものでした。例えばそれは、千段ある階段を上がるためにはまずは一段目から上がっていくようなものであり、遠い場所に行くためには、まずは目の前にある近き道を通らないといけないようなものとなっています。
もう一度、繰り返しお伝えします。文底に秘沈されたものとは、事の一念三千のことになります。それを『南無妙法蓮華経』と名付け、その法体を顕したのが本門戒壇の大御本尊のことになります。
そして、この世界には、たくさんの仏様が出現していることを冒頭の方で述べましたが、お釈迦様を含む三世十方の諸仏は皆、この南無妙法蓮華経を種とされて(南無妙法蓮華経の御本尊と縁して)成仏されています。それは例えて言えば、百千の枝葉が、ことごとく一根より生じ、数多の池に映る月の影は、空にある本物の月より生ずるようなものとなっています。
種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり
秋元御書
ですが、文底の意味を把握していない現在の日蓮宗の御本尊はお釈迦様(久遠実成の本師釈迦牟尼仏)を置いているのが現状です。それは、種・熟・脱の法門が理解できていないための位置付けになります。
あくまでも、お釈迦様は下種するお方ではなく、過去世に下種を受けた衆生を成仏得脱(脱益)させるための人物になります。
つまり、第二章において、久遠元初の遠い昔に、最初の下種が行われたと説明しましたが、実は、そのとき悟りを開いたお方が日蓮ということになります。だから、富士門流では、日蓮のことをさして本因妙の教主釈尊とか、久遠元初の自受用報身如来と呼称することもあります。つまり、それらは根源の仏様であることを示した表現になります。
では、久遠元初(大元)の仏様が日蓮であるとする根拠は何なのでしょうか?
それは行位全同である故となります。
行位全同とは、位も行いも全く同じということです。
今日蓮が修行は、久遠名字の振舞に芥爾計りも違わざるなり
百六箇抄
釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時日蓮が名字即の身に移せり
本因妙抄
釈尊久遠名字即の位の御身とは、久遠元初の仏様との意になります。
その久遠元初の仏様においても、三十二相(仏様特有の飾り物)などをつけない名字凡身の姿であり、日蓮もまた名字凡身です。そしてその修行方法はともに南無妙法蓮華経を流布することにあります。
つまり、日蓮は久遠元初の仏様(根源の仏様)の再誕となります。
ですのでインドのお釈迦様は前に出現しても熟脱の仏様に当たり、日蓮は後から出現しても下種の仏様という位置付けになります。
仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり
本因妙抄
※仏(インドのお釈迦様)は熟脱の教主、某(日蓮)は下種の法主なり
ちなみに、久遠元初の仏様が凡夫の姿をしている訳は、そもそも衆生に損なう仏種がないからとなります。
それは、日蓮においても同様です。つまり、末法の衆生においても過去に下種を受けた人が一人もいないため、凡夫の姿を通して出現されています。また、日蓮が流罪や死罪などを受けたのは、示同凡夫といって、罪障消滅の原理などを示すためでもあります。
繰り返します。ここでの重要なポイントは、インドのお釈迦様は熟脱の仏様であり、日蓮は下種(根源)の仏様という部分にあります。
彼は脱、此れは種なり
観心本尊抄
※彼(インドのお釈迦様)は脱益、此れ(南無妙法蓮華経)は種なり
つまり、法華経の説法の中で、お釈迦様が上行菩薩に対し、法の付属を行ったのは経相に準じたものとなります。それは、当時においてはお釈迦様が主軸となり説法をしていたためとなります。ただし、文底の眼を開けて、御書を拝するとき、熟脱の仏様(お釈迦様)よりも、下種益の仏様(日蓮)の方が優れていることが分かります。
天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給うべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給わざらむ。月は西より東へ向へり、月氏の仏法東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法月氏へかへるべき瑞相なり。
月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五々百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。
諫暁八幡抄
『日は光明月に勝れり』とは日蓮(久遠元初の根源の仏様)の仏法(南無妙法蓮華経)は、お釈迦様の仏教よりも勝れていることを日月の光明と対比して示されている内容になります。
ここまでの内容が腑に落ちると次のことが理解できるようになります。
久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身・垂迹上行・再誕日蓮
百六箇抄
ここで一度、これまでの話を整理します。
要するに、日蓮には外用の姿と内証の姿があるということです。
外用とは外に現れている姿のことです。例えば、法華経の中に登場する上行菩薩の再誕というのが外用の役割になります。つまり、外用とは衆生の目に見える姿や、果たされる使命に着目した見方のことになります。
そして、内証とは、内面に具わる悟りの境地や本地を意味しています。つまり、内証とは、外に現れた姿の奥にある、根本の境地に着目した見方のことになります。
そして、日蓮の内証の姿は、まさに久遠元初の根源の仏様であるということになります。またその根源の本源を指して、久遠元初の自受用身と表現することもあります。
これまで述べてきたように、久遠元初の自受用身と、インドのお釈迦様との違いは以下のようなものになります。
- 下種と脱益の違い
- 名字凡身のありのままの姿と三十二相などで身を装飾する違い
- 本地と垂迹の違い
ちなみに、日蓮が久遠元初の自受用身としての本地を顕したのは竜の口の法難以降になります。ですので開目抄には『日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐渡の国にいたりて』と書かれています。
『頸はねられぬ』というのは過去完了形を意味します。つまり、それまでの迹(仮の姿)を脱ぎ捨てたことを表現しています。そして、『魂魄佐渡の国にいたりて』とは久遠元初の自受用身の魂魄が佐渡にいる日蓮の元に入ったことを意味しています。
ちなみに、子丑の時刻とは、日蓮が頸の座にお座りになり、死刑が実行された23時〜翌3時頃(真夜中)の始終のことになります。そして、その直後には寅の時刻(3時〜5時)になります。
そして、丑寅の時刻はちょうど陰陽(生死)の中間になります。つまり、隠の終わり(死の終わり)と、陽の始め(生の始め)のこととなります。
つまり、子丑の時とは、日蓮の凡身としての仮の姿(垂迹)の死の終わりを示しています。
そして、寅の刻は久遠元初の根源の仏様としての生の始まりを示すものとなっています。
ちなみに、一説によれば、インドのお釈迦様(三世十方の諸仏)も丑寅の時刻に悟りを開かれたとされています。
三世の諸仏の成道は、ねうしのをわり・とらのきざみの成道なり。
上野殿御返事
成道とは仏道を成就し、悟りを開くことを意味しています。まさにその瞬間は、古来中国の陰陽思想にある『陰極まりて、陽に転ず』というような言葉を彷彿させるものとなっています。
それはさておき、重要なポイントは日蓮の本地は久遠元初の自受用身(自受用報身如来)であり、垂迹が上行菩薩になる点にあります。
このことを理解することで、文底の視点から法華経を解釈することができるようになります。例えば、寿量品に説かれている『我実成仏已来 無量無辺 百千万億 那由他劫』(我、実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺、百千万億、那由他劫なり。)を文底の視点から見た場合、我とは、日蓮のことになります。
つまり、『日蓮、実に自受用身の成道を遂げてより、已来(このかた)、無量無辺、百千万億、那由他劫なり。』と捉えることができるようになります。
さて、ここで富士の流儀における文底の意についてお伝えします。
それは、久遠実成の名字の妙法を余行に渡さず直達正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経のことになります。つまり、日蓮が久遠元初で悟った、南無妙法蓮華経の大法が文底に秘沈されているということです。
そして、そのお悟りの全体を顕したのが南無妙法蓮華経の御本尊になります。また同時にそれは、日蓮の魂でもあります。
日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。
経王殿御返事
※日蓮が魂を墨に染め流して認めた御本尊である。信じなさい。仏(お釈迦様)の本意は法華経である。日蓮の魂は南無妙法蓮華経に過ぎるものではない。
つまり、日蓮(久遠元初の自受用身)と南無妙法蓮華経の御本尊(事の一念三千)は別々のものではなく、実は繋がっているとされています。そのことを人法体一といいます。
人法体一とは、日蓮(久遠元初の自受用身)と南無妙法蓮華経の御本尊が別々のものではなく、実は繋がっているとする教義のことです。
しかし、日蓮宗では、人法体一の秘伝や文底の教義が理解できない状況となっています。そのため、現在においても三宝における仏様をインドのお釈迦様としています。
ですが、それは誤りです。そもそも仏像を拝することじたいが、末法の時代と機根に適していません。それは大集経には『白法隠没』と説かれていたり、金剛経には色(姿・形)をもったもの(仏像)を奉ってはいけないことが説かれています。
若以色見我 以音聲求我 是人行邪道 不能見如來
金剛般若波羅蜜経
※色を以て我を見、音声を以て我を求むれば、是の人は邪道を行じ、如来を見ること能わず。
つまり、仏の姿や形だけを見て仏を理解しようとしたり、声や音だけを頼りに仏を求めたりするならば、その人は誤った道を歩み、真の如来を理解することはできないという意味になります。
だから、富士(日興上人)の流れを汲む大石寺では、御本尊を拝する際、生きてまします仏様そのものと心得ています。つまり、その御本尊は久遠元初の自受用報身(如来)の御当体として拝されており、その境地は、事の一念三千と日蓮が融合したものとなっています。
一念三千即自受用身
伝教大師秘密荘厳論
自受用身即一念三千
御義口伝
人法体一の内容を簡単に例えれば、アニメ魔法少女まどか☆マギカにでてくる主人公の『まどか』=『円環の理』みたいなイメージになります。つまり、人即法、法即人というこです。
ここでもう一度、文底の解釈における三宝の定義をお伝えいたします。
- 佛(仏)=日蓮大聖人(久遠元初の大元の仏様)
- 法=本門戒壇の大御本尊(事の一念三千)
- 僧=日興上人(血脈相承の流れを受け継ぐ人)
ここでの結論は、末法の世を救済する力を秘めているのはお釈迦様の仏教ではなく、日蓮の下種仏法にあるということです。ですので、現在、お釈迦様を御本尊として拝している時点でそれはかえって謗法の咎に該当するものとなります。
ただし、日蓮宗の僧侶や信者がそのことを知ったとて、今から活動を辞めるというのは勇氣が試されることになります。それは、お坊さんであれば、収入のあてがなくなったり、信者であれば心理的背景などの懸念点があるためです。
ですので、宗教の洗脳を解きたい場合には心理学の分野においても学ぶことをオススメします。以下の動画で宗教の洗脳にともなう心理的メカニズムについて解説しているので興味があればご覧いただければと思います。
さて、ここまでの内容を通して、日蓮宗における矛盾点をお伝えしてきました。
それは、文上と文底における解釈の違いでした。
では、現代社会に生きる私たちは、正式に日蓮(御本尊)を仏様と見奉り『南無妙法蓮華経』と唱えなければならないのでしょうか?
答えは否になります。
その訳は、『南無妙法蓮華経』を唱える必要があるのは、あくまで日蓮の宗教から見た論理に過ぎないからです。つまり、富士の流れを汲む日蓮の宗派においても、また別の視点から見ることで、本質からズレている解釈になるということです。
それでは次章より別の視点における解釈について見ていきたいと思います。
日月神示(大日月地神示)と法華経と〜そこから理解できること〜
ここから先は、日蓮の教義とは異なる別の視点についてお伝えしていきます。
では、まずは日月神示に示されている内容をご紹介していきます。
日月神示においては、全編を通して、『今は岩戸の中、いずれ岩戸が開く、開いたとき世界は一変する』というような内容で書かれています。
岩戸開きとは、天と地上を隔てていた扉・岩戸が開かれ、エネルギーや意識の世界が一氣に動き出すことを意味しています。
つまり逆にいうと、これまでの時代においては岩戸が閉じれれている状態だったため、本来のエネルギーが遮断されていたということになります。ですのでこれまでの人類は本質に目覚めないように眠らされていた時代ともいえます。
ちなみに岩戸はこれまでに5回閉じられてきたと説かれており、その中の一つが仏教と関連していることが示されています。
岩戸は五回閉められているのだぞ、那岐、那美の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男の神様に罪着せた時、その五度の岩戸閉めであるから この度の岩戸開きは中々に大層と申すのぞ
(日月神示)日の出の巻〜第1帖
※岩戸は(これまでの地球で)五回閉められているのだぞ、那岐(イサナギ)、那美(イザナミ)の尊の時、天照大神(アマテラスオオミカミ)の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男の神様に罪着せた時、その五度の岩戸閉めであるから この度の岩戸開きは中々に大層と申すのぞ
ではなぜ仏来たとき(仏教が広まったとき)が岩戸閉めに繋がっているのでしょうか?
それは、自分軸を忘れさせる要因になるからです。つまり、結果的に宗教に依存させることで本来の自分の姿を見えにくくさせることに起因しているということです。
そして、日月神示の一説には日蓮のことにも言及されている箇所があります。それによると、現在の日蓮(南無妙法蓮華経の御本尊)は魂のない抜け殻の状態であると説かれいます。
この道は道なき道だぞ。
日月神示(地つ巻〜第12帖)
天理も金光も黒住も今は魂抜けておれど、
この道入れて生き返るのぞ、
日蓮も親鸞も耶蘇も何もかも みな脱け殻ぞ、
この道でタマ入れてくれよ、
この道はゝぞ、◯の中にゝ入れてくれと申してあろうが。
臣民も世界中の臣民も国々も皆同じことぞ、
ゝ入れてくれよ、◯を掃除しておらぬとゝは入らんぞ、
今度の戦は◯の掃除ぞと申してあろうがな、
まつりとは調和合わすことと申してあろうがな、
人集めてくれるなと申してあろうがな。
世界の臣民みな信者と申してあろうが、
この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。
この道でみな生き返るのだぞ。
※この道(岩戸開きに通じる道)は道なき道だぞ。
天理も金光も黒住も(三大新興宗教も)今は魂抜けておれど、
この道入れて生き返るのぞ、
(古くからある)日蓮も親鸞(仏教)も耶蘇(キリスト)も何もかも みな脱け殻ぞ、
この道でタマ(魂)入れてくれよ、
この道はゝ(靈・魂)ぞ、◯(心・體・器)の中にゝ(靈・魂)入れてくれと申してあろうが。
臣民も世界中の臣民も国々も皆同じことぞ、
ゝ(靈・魂)入れてくれよ、◯(心・體・器)を掃除しておらぬとゝ(魂・靈)は入らんぞ、
今度の戦(大峠)は◯(心・體・器)の掃除ぞと申してあろうがな、
まつり(祭り・政)とは調和(まつり)合わすことと申してあろうがな、
人集めてくれるなと申してあろうがな。
世界の臣民みな信者と申してあろうが、
この道は道なき道(既存の教義や特定の形式にはない道)、時なき道ぞ(特定の時代だけに限定されない道)、光ぞ(人や世界に本来の力を取り戻させるもの)。
この道(岩戸開きに通じる道)でみな生き返るのだぞ。
上記の中では、靈體を一致させることが重要だと説かれいます。
ちなみにゝや◯においての意味合いにおいては定まっておらず、またところどころの解釈においても、読む人の捉え方によって八通り(※様々な解釈にという意味)に変化するとされています。また余談ではありますが、これからの時代は、とりわけ靈主體従の原理が重要になることが示されています。
霊に偏へんしてもならん。霊も五、体も五と申してあろう。じゃが主は霊であり体は従ぞ。
日月神示(冬の巻~第1帖)
※霊に偏ってもならず。霊も五(五=カ+ミ=神)、体も五(神)と申してあろう。じゃが主は霊であり体は従ぞ。
つまり、物質主義に偏るでもなく、スピリチュアルの分野に偏るのでもなく、丁度バランスよく靈體を一致させることが喜びの根本の土台になると説かれており、特に重要なのが、靈主體従すなわち、物質主義(お金や物)のために體を動かすのではなく、靈(魂)を主とすることが大切になるということです。
そして、本当の自分と繋がっていくことが大峠を乗り越えるための(岩戸開きの)秘訣だとされています。
ちなみに、日月神示は世の中にある宗教の類とは一線を画している部分があります。
例えば、現代社会における宗教とはお金・信仰・教典・集団・神仏などの要素などが複合的に重なり出来ていますが、日月神示だけは、お金は不要になると説き、教団のための人集めはするなと説き、そして、これまでの宗教の時代は終わると説いています。すなわちこの日月神示が書かれた目的は究極のところ次の一点に要約できます。
それは、世の中の大建て替え(立て直し)です。そして、そのために重要になってくるのが御魂磨き(心の掃除・洗濯)であるとされています。
以下、日月神示の内容を分かりやすく解説している動画をのせておきますので興味があればご覧いただければと思います。
日月神示が世にでてしばらくした後、続きの内容ともいえる大日月地神示が神人さんにより書かれています。その中の一説には次のように説かれています。
お釈迦様も嘆いておりますわい。真の教えがすり替えられたと申しておりますぞ。仏の道、解脱の道ではないぞ。他のために己生かし切る道ぞ。真貫く清き喜びの道ぞ。他一切を貴ぶ生き方でありますぞ。派手な袈裟下げ、装飾品に包まれ、心無い歌唄って金貰うでないぞ。どこの宗教団体も皆々似たようなこといたしておりますぞ。信者、脅すでないぞ。会を止めれば地獄に堕ちるじゃの、病となるじゃの、義理返さねば神仏に祟られるだのと、嘘偽り申すでないぞ。影で集いて、幹部らは呪いの儀いたし、離れた信者に負の念送りいたしておりますのぞ。魔の僕、多いのう。一人残らず因縁相応に罪滅ぼしさせるから、覚悟なされよ。己で己に苦しまされ改心させられるお仕組みでありますから、誰も恨むでないぞ。己のツケは己で返しなされよ。めでためでたの清めのお仕組みじゃ。
大日月地神示(五十五)
※お釈迦様も嘆いておりますわい。真の教えがすり替えられたと申しておりますぞ。仏の道、解脱(成仏)の道ではないぞ。他(他者)のために己生かし切る道ぞ。真貫く清き喜びの道ぞ。他一切を貴ぶ(万物の意思を尊重する)生き方でありますぞ。派手な袈裟下げ、装飾品に包まれ、心無い(口先だけの)歌唄って(言葉唱えて)金貰うでないぞ。どこの宗教団体も皆々似たようなこといたしておりますぞ。信者、脅すでないぞ。会を止めれば地獄に堕ちるじゃの、病となるじゃの、義理返さねば神仏に祟られるだのと、嘘偽り申すでないぞ。影で集いて、幹部らは呪いの儀いたし、離れた信者に負の念送りいたしておりますのぞ。魔の僕、多いのう。一人残らず因縁相応に罪滅ぼしさせるから、覚悟なされよ。己で己に苦しまされ改心させられるお仕組みでありますから、誰も恨むでないぞ。己のツケは己で返しなされよ。めでためでたの清めのお仕組みじゃ。
そして、大日月地神示の最後の章では次のように説かれいます。
我が宗教、宗派、教団が一番じゃと申して、頑なになりておるのは、皆々団体に洗脳されておるゆえでありますぞ。・・・
無宗教じゃ無神論じゃと申すお方も同じでありますぞ。無宗教・無神論という言葉美化いたし、己の思い込みに酔うておりますのじゃ。宗教、悪ではないぞ。じゃが、善でもないぞ。個々の捉え方一つでありますのぞ。真、一つぞ。真、無限ぞ。・・・
キリストの教えも、釈迦の教えも、マホメットの言葉も、誰も彼も皆々、正しくもない、間違いでもないのじゃ。初めから良くも悪くもあり、良くも悪くもないのじゃぞ。良くも悪くも常に変化し続けているだけでありますのじゃ。・・・
ゆえに時代相応の神人生まれさせ、真説いて聞かせてきておるのじゃ。地の民よ、聞く耳持てるかのう。真、聞く気持ちあるかな。人の思考は、どこから来るものぞ。悟れれば、真、神の心、神の智、知るのぞ。靈も人も皆々神の一部、神の顕れでありますのじゃ。
この神示、世界中の民に読ませて下され。すべての者救う書となりますぞ。神、お頼みいたしますぞ。
二〇一七年十二月二七日 大日月地大神御靈
我が宗教、宗派、教団が一番(一番勝れている教え)じゃと申して、頑なになりておるのは、皆々(宗教)団体に洗脳されておるゆえでありますぞ。・・・(中略)
無宗教じゃ無神論じゃと申すお方も同じでありますぞ。無宗教・無神論という言葉美化いたし、己の思い込みに酔うておりますのじゃ。宗教(そのものが)、悪ではないぞ。じゃが、善でもないぞ。個々の捉え方一つでありますのぞ。真、一つぞ。真、無限ぞ。・・・
キリストの教えも、釈迦の教えも、マホメットの言葉も、誰も彼も皆々、正しくもない、間違いでもないのじゃ。初めから良くも悪くもあり、良くも悪くもないのじゃぞ。良くも悪くも(善も悪も)常に変化し続けているだけでありますのじゃ。
ゆえに時代相応の神人生まれさせ、真説いて聞かせてきておるのじゃ。地(地球上)の民よ、聞く耳持てるかのう。真、聞く気持ちあるかな。人の思考は、どこから来るものぞ。悟れれば、真、神の心、神の智、知るのぞ。靈も人も皆々神の一部、神の顕れでありますのじゃ。
この神示(大日月地神示)、世界中の民に読ませて下され。すべての者救う書となりますぞ。神、お頼みいたしますぞ。
二〇一七年十二月二七日 大日月地大神御靈(おおひつくおおかみおんたま)
上記の中で特に大切なのは『真、一つぞ。真、無限ぞ。』 の部分にあります。
つまり、数多の宗教に説かれる本質は究極のところ一つといえども、その本質は無限の捉え方ができると説いています。
ちなみに、宗教の見方には4つの視点(文章上のもの・文底に暗示されているもの・生き方や在り方・その宗教の奥にある究極的・神秘的なもの)があるとお伝えいたしましたが、おそらくその究極的・神秘的な根源(土台)においては、全てつながっているものと思われます。
そのことを指して、『真、一つぞ。真、無限ぞ。』と説いていると思います。
ちなみに、余談ではありますが、日月神示(大日月地神示)に示されている世の立て替え立て直しを行う神とは艮金人と説かれています。
艮金人とは世の立て替え立て直しの神、世の元からの生き神、大日月地大神のことであるのぞ。真の教えでまとめる、神世生む神ぞ。地の大神ぞ。
大日月地神示(一八)
※艮金人(うしとらのこんじん)とは世の立て替え立て直しの神、世の元からの生き神、大日月地大神のことであるのぞ。真の教えでまとめる、神世生む神ぞ。地(ち)の大神ぞ。
そして、仏教(数多の宗教)と日月神示(大日月地神示)には重なるポイントがいくつもあります。
例えば、大日月地神示に説かれているように、艮金人は、地の神と言われることもあります。つまり、ここでは地涌の菩薩の『地』ともリンクしていたり、艮金神には金という文字が入っていますが、経文に示されている内容によれば地湧の菩薩たちも皆、金色です。
是諸菩薩。身皆金色。
法華経(従地涌出品第十五)
※是の諸の菩薩、身皆金色
ちなみに艮金神は、一説においては国之常立神といわれることもありますが、神人さんの発言によれば艮金神においては靈団になるそうです。同じように、地涌の菩薩においても集団で形成されています。
また艮(うしとら)とは、丑寅(うしとら)にもつながってきます。すなわち一切の仏様が成道を成し遂げる瞬間とも重なるものがあります。
そして、仏教と日月神示そのどちらにも弥勒というキーワードが示されたり、日本が重要な鍵を握ることが説かれていたりします。
その時は五六七の世となるのだぞ。・・・
富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ。
日月神示(日の出の巻〜第4帖)
※その時は五六七(みろく)の世となるのだぞ。・・・(中略)
富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ。
一二三の仕組みが済みたら三四五の仕組みぞと申してありたが、世の元の仕組は三四五の仕組から五六七の仕組となるのぞ、五六七の仕組とはミロクの仕組のことぞ
日月神示(富士の巻〜第四帖)
※一二三(ひふみ)の仕組みが済みたら三四五(みよいづ)の仕組みぞと申してありたが、世の元の仕組は三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、五六七の仕組とはミロクの仕組のことぞ
つまり、日月神示においても仏教においても共通することは、日本から『世界の暗闇を照らす光』が生まれ、それが全世界に波及することで、新しい時代に突入するということです。
繰り返します。日月神示と法華経には偶然にも重なる部分がいくつもあります。
そして実は、日蓮も空海も仏陀もキリストも究極の本質の部分ではつながっているのだと思います。ただし、それぞれ本質を捉える目線(見る角度)が違う故に各々の主義主張や宗教が生まれています。
ちなみに足立育郎さんという人物が書いた『波動の法則』の中には、エドガーケイシーも日蓮も空海も荘子も孔子も同じ宇宙の情報層(シン帯と呼ばれる情報源)にアクセスしたことが書かれています。ちなみに、その本の情報によればキリストはエーテル帯の層と繋がり、仏陀(インドのお釈迦様)はコーザル帯の層までと同調可能だったことが示されています。
また、チャネリングなどの手法を用いて様々な目に見えない存在とアクセスされる人々がいますが、基本的には地球から非常に近い情報層と同調しているとのことです。

ちなみに、その宇宙の根源の部分にある本質と私たちの潜在意識の奥にある超意識の世界は重なる部分があると感じています。
※超意識に関する内容は以下の記事にまとめていますので興味があればご覧いただければと思います。
つまり、重要なことは本質に立ち返ること、すなわち、大いなるものの存在(大いなるものの自分自身)とつながることだと思われます。そのためには自分の中にある洗脳を解除することが必要不可欠になると思います。
そして、日月神示には次の一説が示されています。
神、仏、耶ことごと和し、和して足り、太道ひらく永遠、富士は晴れたり、太神は光り出づ、神国のはじめ。
日月神示(地つ巻〜第十九帖)
※神(神道)、仏(仏教)、耶(キリスト教)ことごと和し、和して足り、太道ひらく永遠(根本たる道が開かれ永遠に続いていく)、富士は晴れたり(富士=二二・晴れ=八〇)、太神(大いなる神)は光り出づ、神国(日本)のはじめ。
つまり、岩戸(太道)を開くための秘訣は、和すこと、すなわち、調和の精神にあると説かれています。
さて、この章での結論を述べます。
日月神示の内容の視点から見ていくと、これまでの宗教の時代は終わり、そして、これからの世界では岩戸開きを起点に新しい時代に入るということです。
では、日月神示や大日月地神示に説かれている内容は全て正しいのでしょうか?
あえて端的にお伝えします。
答えは否です。
なぜなら、それもまた、あくまでも日月神示や大日月地神示から見た論理に過ぎないからです。つまり、また別の視点から見ることで、本質からズレている解釈になるということです。
例えば、秘密のたからばこという書物によれば、日月神示にでてくる艮金人は、その著者たる佐藤和也氏本人に当たると説いています。それだけではなく、お釈迦様や日蓮などの救世主としてのバトンを託された最後のアンカーだとも示されています。
あなたは…釈迦、キリストに始まり、仏陀、マホメット、孔子、老子、孫子、孟子、荘子、朱子、最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮…と他の救世主や予言者たちに脈々と受け継がれてきた、救世主リレーの大切なバトンを渡された、最後のランナーだったの。
秘密のたからばこP504
大本教も日月神示も、本物よ。その中に出てくる神さんって…あなたのことよ。まぁ、あなたもそこまでは分からなかったみたいだけど…そりゃ、そうよね。誰だって、分からないわよね。でもそうなのよ。出口王仁三郎さんが予言した救世主って、あなたのことなのよ。
秘密のたからばこP680
ちなみに、秘密のたからばこという書籍にでてくる内容においても、また別の視点から見ることで、本質からズレている解釈になります。
例えば幸福の科学の教祖たる大川隆法氏も、ご自身の発言において『仏陀の生まれ変わり』だとか、『日蓮と会話をした』というような発言もあります。そして、幸福の科学の教義では、エル・カンターレ(大宇宙の根本仏)への祈りこそが全人類が救済されるための方法だと解釈されています。
繰り返しになりますが、その内容もまた別の視点から見ることで本質からズレている解釈になります。
さて、一旦ここまでの結論を述べます。
数多の宗教で説かれている究極の内容は根源の部分では全て繋がっている可能性がありますが、注意が必要なのは、日月神示(大日月地神示)や日蓮宗(日蓮正宗)などの特定の宗教だけが本質を説き明かしているものではないということです。つまり、日月神示(大日月地神示)や日蓮宗(日蓮正宗)もまた、本質の一部分を説いたものにすぎないということです。

そもそも、この世にでている宗教の類は、大元を辿れば、DS(世間の表舞台にはでてこない組織や存在)とのつながりもあったりします。それは人々を洗脳することで、支配しやすくする仕組みがあるからです。それはもしかすると聖徳太子のいた時代の頃より、いや、それよりももっと古い時代から大衆を洗脳(コントロール)するために仕掛けられていた可能性すらあります。
つまり、ここまでの結論としては、日蓮宗・日蓮正宗・日月神示・大日月地神示に限らず、どの宗教であろうと、それらの内容を100%鵜呑みするのは注意が必要になってくるということです。
そして、重要なポイントはそれらは、あくまでそれらはメタファー(比喩)であるということです。
つまり、人によって参考にしている情報は様々ありますが、どの情報であろうとも、思考停止した状態で、情報を鵜呑みにするのは注意が必要だということです。無論、私が発信している情報においても同じことがいえます。

つまり、私たちが住む此の地球上では様々な教えや価値観がありますが、大切なことは視野を広げることになります。そして、それぞれの教えの中から矛盾点している箇所を把握していくことになります。ちなみに、その先で残ったものは、たとえどんなに受け入れ難いものであったとしても、それが真実になります。
一応、そこでの私の見解についても述べておきます。
それは、この世界に絶対的に正しい教え(答え)なんて何一つないということです。
だから、宗教(人生)における答えを探すのではなく、自分の心の中にある想いが大切になると感じています。
本質について
さて、最後に本質の内容について深掘りしていきたいと思います。
繰り返しになりますが、この世界に絶対的に正しい教えなんて何一つなく、宗教上における本質とは、様々な視点によって幾重にも姿・形を変えながらも、その無限にあるすべてのものを内包する一つのものという仮説をお伝えしてきました。
その内容とも重なる部分が波動の法則の本にも書かれているので一部抜粋しご紹介していきます。
「本質」というのは、私どもがふだん現実に使っている言葉でいう「意識」と「意思」の集合体です。実は「意識」と「意思」には三種類あります。・・・
そのうちの一つが顕在意識で、もう一つは心理学用語でいう潜在意識に近い状態のものです。・・・
三つ目の「意識」と「意思」は、「本質的なもの」という言い方ができます。・・・
これが三つ目の「意識」と「意思」で、「本質」であり、原子核の集合体(エクサピーコ)と言います。この「本質」は電子を伴わず、物体化していません。・・・
原子核の集合体(エクサピーコ)というのは、日本語では「魂」という言い方が一番近いかもしれませんが、かなり不正確です。正確には宇宙語では(エクサピーコ)と言います。・・・
人間の肉体はあくまでも借り物なのです。そして自然の法則の中で、宇宙の全ての存在物には原子核の集合体(エクサピーコ)が存在しており、それらが、皆スタディをしているのです。・・・
自然の法則にかなった調和のとれた意識でスタディを積み、実行していくに従って、周波数が上がる。現実に何か調和のとれた決心をしますと、その瞬間に原子核の数が増え、それを実行して実現するステップを踏みますと、体験して味わった原子核の集合体(エクサピーコ)は成長します。ところが不自然な、自然の法則に反するような意識で顕在意識が行動をとり続けますと、不調和な振動波を出し続けて周波数が上がらず、これが下がっていきます。そうしますと、原子核の集合体(エクサピーコ)の数がまったく増えません。・・・
つまり「本質」である原子核の集合体(エクサピーコ)はスタディをしたくて、そのメッセージをいろいろな形で顕在意識に振動波として送っているのです。ところが、ふだん地球のこの文化のベースになっている基本的な考え方を主体にして生き、より安全に自分のボディを守ろうという顕在意識が強いとそれを受け取れないのです。要するに顕在意識が調和のとれた状態でボディを管理している場合は、「本質」から入ってくる情報を顕在意識も素直に受け止めてそれを実行することができるわけです。それが、より安全に自分だけのボディを守ろうという意識(いわゆる自我)が拡大されますと、つまり、自分の安全を守る、自分の家族だけの安全を守る、自分の会社だけは、自分の国だけは、自分の民族だけは、あるいは「人間だけは」という意識になりますと、その意識は、自然の法則から見れば不調和です。エネルギーは全ての存在物の調和がとれるように、例外なく均等にいきわたっていくものです。「人間だけ」という意識は、自然の法則から見れば非常に不調和です。そういう意識で行動をとっている限り、顕在意識は常に不調和な振動波を発振しています。
上記の内容は、本質について述べられた部分になります。その中には次のようにあります。『地球よりはるかに調和のとれた星というのは、原子核の集合体(エクサピーコ)だけで常にコミュニケーションもスタディもできますから、肉体化はしません。』と、それはつまり、超意識の世界では、個々の集合体がつながっており、テレパシーでコミュニケーションができる故だと思われます。
ですが、続いて次のように書かれています。『しかし、何かよほどの理由で肉体化する必要があり、その肉体を使って役割をするという時には、原子核の集合体(エクサピーコ)が入れ替わって一つのボディを使うということがあり、調和のとれた度合によって数が増えていくらしいのです。』と。
ここでいうよほどの理由とは、例えば、地球が破滅の道に向かっているときとか、人々が悪質な存在に支配され負の念が地球上に満ち溢れている状態になっているみたいな、そんな状況に接したときに、エクサピーコ(靈體≒魂)である本体が、人間のボディ(身體)を借りて、地球を癒しにくるみたいなイメージになるかと思われます。
そして、足立育郎さんによればエクサピーコ(原子核の集合体)と魂は異なると述べられていますが、それはつまり、私たちの本体(本質)たる魂は、おそらく、一人の存在としてではなく、繋がりの中で形成されていることを示しているものだと思われます。
例えば、私たち一人一人の魂の集合体が、宇宙空間のどこかでは、巨大な龍となったり、あるいは惑星として形作られていたりする可能性もあるのだと思います。それは私たちの體の中に約37兆個の細胞があるようなイメージになります。
そして、これからの時代で重要なことはその大元の本質へとつながることだと思います。そのための手段は、人それぞれの世界線によって異なると思います。
ちなみに、この世界に、たくさんの宗教や教えが説かれているのも、そのような内容と関連しているように感じます。
つまり、この記事でも紹介してきたように、多くの宗教やスピリチュアルの世界では、これからの新しい時代ではミロクの世になると説かれていますが、おそらく、そのミロクの世とは、一つの世界線だけではなく、無数にあるものだと思います。
ただし、注意点としては、目に見えない存在や領域に関する内容の多くにおいては、人々をコントロールしたがる存在もいるということです。そして、仮にコントロールされるようになった場合には自分自身が本来、望まなかった人生になることもありえると思います。また人によって自分のことを仏陀とかキリストの生まれ変わりだとか発言することも充分にありえます。
また、人々を支配したがるのは、宇宙人や神社で祀られている神だとか稲荷の可能性もあるそうです。
そして、人々をマインドコントロールするときに使用される共通項目があります。それは、その教えに反する思想は魔の影響によるものだと説いたり、その教えを信仰しない場合には地獄に堕ちたり、罰があたるみたいな文章構造になっている点にあります。
以下、参考となる動画をのせておきますので興味があればご覧いただければと思います。ちなみに、以下の動画では、佐藤玲奈さんという人物が本質(エクサピーコ)について語っている部分もありますが、おそらく本人はエクサピーコっていう言葉は知らないまま無意識でその本質の部分を語っていると思います。
つまり、重要なことは、どの宗教(世界線)を選ぶかではありません。
どんな世界線であっても大丈夫という認識で本来の自分に立ち返ることです。
そのことを踏まえた上でもう一度、お伝えします。
この世界に絶対的に正しい教えなんて何一つありません。
あなたは、あなたのままで大丈夫です。
なぜなら、あなたの本当の姿は本質(光)そのものですから。
星や太陽などの光が最も美しく輝くのは夜が極まったときです。
どうか、自分自身の内なる心(光)を信じてくださいね。
最後までご覧くださりありがとうございました。
この記事の締めくくりとして、私の好きな歌詞を紹介して終わりにしたいと思います。
今宵は百万年に一度太陽が夜に遊びに訪れる日
終わりの来ないような戦いも今宵は休戦の証の炎をともす
人はそれぞれ「正義」があって、争い合うのは仕方ないのかも知れない
だけど僕の「正義」がきっと彼を傷付けていたんだね






コメント